『横浜北大学』は春のリーグ戦、接線の末優勝を果たした。
成績は全勝とはいかず、『関工大』に1敗したが、トータルの成績でなんとか競り勝った。
そして、1年ぶりに代表メンバーに戻った理久は、夏を迎えても忙しい日々を送っている。
就職試験も終えた、私といえば……
「あぁ……暑い……」
「いずみ、ちょっとダラダラしていないで、少しは家のことを手伝ってよ」
「ダラダラって失礼な」
学生として最後の夏を、ゆっくりと過ごそうと決めている私に、
母はこれまで以上に、あれこれ口うるさく言うようになった。
兄の結婚が冬に決まり、子供たちがここを離れるということが現実味を帯びてきたのか、
兄の結婚相手の女性が料理上手で、娘の至らなさに焦りを感じたのか、
とにかく、色々なことにチェックが入るようになる。
私は、そんな状態から逃れたくて、何かと理由をつけ家を空けることが増えた。
家にいると、家政婦さんのように使われてしまう。
母の目を盗み、自転車で坂道を走り出したとき、見えてきたのは理久だった。
片手を自転車から離し、大きく振ってみせる。
そばまで走り、ブレーキをかけると、手に持っていた荷物をカゴに乗せてあげた。
「合宿は? 終わったの?」
「1日だけ休みがもらえたんだ。だから戻ってきた」
「1日? じゃぁ、夜にはまた行くの?」
「あぁ……どうせ会場は近いしね」
「でも、1日しかないのなら、ゆっくり体を休めていればよかったじゃない。
疲れるんじゃないの?」
今まではあまりそんなことを思うこともなかったが、理久の試合を見続けて、
どれだけスケジュールがハードなのか、私もそれなりにわかるようになった。
1日休みがあったのなら、部屋でじっくり体を休めていた方が、
疲れも取れたに違いない。
「でも、今日しかないと思ったから」
「あ……お墓参り?」
「……それは済ませてきた」
結局私は、自転車を理久の家に止め、そのまま島本家へおじゃました。
理久は荷物を下ろすと、冷蔵庫から牛乳を取り出し、コップに入れる。
「いずみ、どこかに行こうとしていたんじゃないの?」
「ううん……あまりにもお母さんが人を使うから、逃げ出そうと思って」
「逃げたのか」
「うん」
理久は笑うと、コップを流しに置いた。
私はそれをすぐに洗い、立てかける。
「よかったよ、いずみのところに行こうと思っていたからさ」
「うちに?」
「あぁ……」
理久は空気を入れ替えるつもりなのか、和室の窓を大きく開けた。
夏には珍しいような爽やかな風が、部屋の奥まで流れてくる。
「いずみに、礼を言わないといけないと思って。それで戻ってきた」
「私に?」
「うん……」
理久は縁側に腰かけると、私にもこっちへ来ないかと手招きする。
私はコップを二つ取り出すと、両方に麦茶を注ぎ二人の後ろに置いた。
「まさかさ、1年前にはこんなふうになるとは思ってなかったよ。
もう、逃げ出してしまいたいって、本当に思っていたから」
理久のお母さんが亡くなり、そこからどうにも出来ないしがらみに、
思うようなプレーが出来なくなったことを、理久は思い出しているように見えた。
そういえば、ちょうど1年前、初盆の時にあったことを思いかえす。
理久が泣いた日……
「いずみがいなかったら、俺、戻れなかったと思う。お前の頑張りでここまで来られた。
本当に感謝している」
「もういいよ、理久。理久が頑張ったんだよ、私なんて……ちょっと頑張っただけで」
「いや……」
『だったら今すぐここで裸になれよ』
あの日、言ったことは本気だったのか……聞いてみたい気がした。
今なら、素直に、全てを語れそうな気がしてくる。
「俺さ、一度言おうと思ったことがあるんだ」
「何を?」
「『北大』の寮に入ることになった日、駅まで一緒に行っただろ。覚えてる?」
「もちろん覚えているけど」
「あの日、言おうと思っていたんだ。でも、言えなかった。
ずっと見ていたらさ、わかるだろ、目を見たら。
いずみにはあの時、俺なんて何も映っていなかったから」
高校を卒業したばかりの頃……
あの駅で別れた日、何か言いたそうだった理久の表情を思い出す。
「お袋のことも頼むなって思いもあったし、変に意識させたら悪いって思いもあったし、
妙な関係を作るよりは、このまま……いつも文句ばっかり言い合うような、
そんな幼なじみでもいいって……そう思って言えなかった」
理久はきっと、心に届く言葉を話してくれるのだろうと、
私の鼓動は少しずつ速くなる。
「いずみの顔を見ながら、もう届かなくなるんだろうなと、そう思って……」
改札を通った理久は、確か一度だけ振り返った。
まだ、幼さの残るあの日の思い出。
「自分では、お袋の時間が少なくなっていることもわかっていたつもりだったし、
その日が来ることも、ずっと覚悟していたつもりだったのに、
いざとなったら、何もわかってなくてさ。いつもと同じ練習をしても、
どこかずれてるんだ。そこがどうしても戻せなくて、わからなくて、
それで迷い込んで……」
今まで、理久が苦しそうにする場面を、私は見たことがなかった。
いや、理久は苦しくてもきっと乗り越えるだろうと思っていたし、
現に、何かと迷惑をかけてきたのは私のほうだった。
助けてもらって……
愚痴を聞いてもらって……
文句を言って……
「来なくていいって言ったくせに、いつの間にか、いずみの姿を探していた。
お前が観客席に座っているのかどうか、見に来てくれるのかどうか、
確かめている自分がおかしくてさ……」
「理久……」
「お前がそこにいるだけで、それで気持ちが落ち着いた。
次はなんとか出来るだろうって、プレーにも余裕が出てきた気がする」
おばさんの残してくれたカメラを握りしめ、とにかく理久を追いかけた日々。
すぐに目をそらされたけれど、心だけはしっかり伝わったのだとそう思う。
「いずみが好きだって、この1年の中で、あらためて思った。
お前に情けない自分を見せているのが嫌で、そこから必死になれた。
もうどうでもいいやと思っていたハンドボールに、もう一度目標をもつことが出来た」
理久は、このために大事な時間を使って、ここへ戻ってきたのだろう。
私は嬉しくて泣きそうになるのを必死でこらえるため、しっかりと息を吸い、
そして吐き出していく。
「いつからかなんて、覚えていないくらい……ずっと前から、
いずみが好きだったんだよなって、色々と思い出して……」
憎まれ口を叩いても、それでも理久のことを気にしない日はなかった。
そばにいるのが当たり前で、特別じゃないとそう思っていた日。
「いつも助けてもらうのは、私のほうだったじゃない。理久がそこにいるのが、
何でも出来るのが、当たり前だと思っていた。でも、そうじゃないんだって気づいた時、
なんとかしてあげたくて……。ルールもわからないのにさ、ただ見続けた。
おばさんの姿はなくても、あのカメラで撮り続けてあげることが、
その目の代わりになるような気がして。あはは……やだな、もう、
そんなことないのに、考えることが幼稚だよ、私……」
理久の腕が、私の背中にそっと触れた。
どこか遠慮がちに、だけれど、優しく強く引き寄せてくれる。
なんともいえない落ち着けるぬくもりに、私はそっと寄り添っていく。
「ねぇ……理久。聞いてもいい?」
「何?」
「あれ……ほら、部屋で言ったこと。本気だった?」
「ん?」
私は、去年の夏、理久が私に向かって言ったセリフのことを問いかけた。
私が理久への思いに気づいた、あのセリフ……
「あぁ……」
理久は少し恥ずかしそうに頷きながら、軽く息を吐いた。
私は言葉を聞きたくて、少しだけ顔を上げる。
「本気といえば、本気だったかもな。どうでもいいような幼なじみの関係なら、
いっそ思い切り遠くへ行って欲しいって気持ちがあったのかもしれない。
とんでもないことを言って、嫌われた方が、楽だって……」
「楽?」
「うん……」
あの時の、理久が見せた辛くて哀しい目は、今も忘れられない。
心がひとりぼっちになっていたことを、訴えていたあの目。
「私はね、それならそれでいいと、本気で思った。
理久がそうなることを望むのなら、それで気持ちが少しでも楽になれるのなら、
私受け止めてあげたいって……思ったんだよ」
「いずみ……」
「理久が好きなんだなって……本当にそう思ったんだよ、あの日」
耐えていたのに、私は結局泣いてしまった。
理久は私をさらに引き寄せると、全てを包みこむように、そっと腕を回す。
バカだなぁ……私。
理久を受け止めて、泣かせてあげるつもりだったのに、
なんで自分が泣いているんだろう。
今まで理久にずっと、ずっと見守ってもらってきた、そんな恩返しが、
少しだけ出来たことへの安心感なのか、私の涙は止まらない。
私が『弱虫』だと思っていた人は、どこまでも優しく、そして強い人だった。
理久と出会えて、本当によかった……
私は腕の中で泣きじゃくりながら、ただ、そう考えた。
理久は合宿に戻り、そして秋のリーグ戦を迎えた。
オリンピック種目になっているハンドボールだが、
日本チームはソウルオリンピックを最後に、しばらく出場できていない。
協会は、次の候補生達を集めようと、大学にも顔を出す。
毎度、見かける顔が一緒なので、私も覚えてしまうほどだった。
『横浜北大学』には、理久を含め、候補に挙げられる学生が5人いる。
その中で、頑なにその後を拒否しているのは、理久だけだった。
「理久君、企業推薦受けないんだって?」
「うん、理久はもうハンドは大学までって決めているの。
リーグ戦が終ったら、来年の教員採用に向かって試験勉強を始めるって」
「教員採用? あぁ……そうなんだ。先生になりたいんだ」
「うん、学生に教えたいんだって。
このリーグ内で『横浜北大学』は確かに強豪チームだけれど、
理久は自分は学生までだろうって、そう思っているみたい。
オリンピックを目指すとなると、日本中全ての人たちがライバルなわけで、
そこまで張り合って競技をしようとは思わないみたいよ」
「ほぉ……考えは色々だな」
「先生方はもったいないって、言っているみたいだけど、
理久は自分で決めたら、絶対に押し通すからね」
その日の朝食は、パンだった。
父と母も、私が理久と幼なじみ以上の関係になったことは気づいているようで、
毎回試合を見に行くことも、夜、携帯で長電話をしていることも、特に追求してこない。
「そうよね、理久君は『杉谷』へ行けたのに、『松が丘』に決めちゃったし」
「お母さん、それ何年前の話しなのよ」
母は父の支度をしながら、視線だけはワイドショーの流れるテレビに向ける。
隣の国から来た俳優の話題になると、
ハンカチを寄こせと言っている、父の言葉も聞こえなくなるようだ。
「うわぁ……かっこいいわ……目が、目がこっち見ている。いやぁ……もう!」
「ごちそうさまでした。ほら、お父さん、これ……」
私は母の代わりに、父にハンカチを渡すと、お皿を流しに片付け、階段を昇った。
廊下にある小窓から、隣の島本家を見る。
理久の部屋はもちろん閉まったままで、姿はない。
「さてと、行かなきゃ」
今日の会場は、『東修大』だった。春には勝った相手だけれど、
1年生にインターハイで優勝したチームの選手が3人入り、
秋はダークホース的存在になっている。
『北大』のライバル『関工大』も先週同点の末、延長戦までもつれ込んだ。
優勝のためには、絶対に落とせない。
私は駅のホームに降りると、大学に向かう階段を目指す。
『東修大』のあるこの駅には、有名な企業も多く入っていて、
サラリーマンと学生が入り混じり、ホームはごった返した。
流れが落ち着き、階段を上がりきったその先で、私はある人に視線が止まる。
目の前に立っていたのは、神部さんだった。
スーツ姿になり、以前とは髪型も変わったが、すぐにわかった。
大学を卒業し、どこか大手の会社に入ったのだろうか。
動きがゆっくりになった私の方へ、神部さんの目も動き、間違いなく重なった。
今更、懐かしそうに会話をする間柄ではないが、逃げるのも嫌で、私は一歩前へ出る。
「おい、神部、何しているんだ、連絡したのか!」
「あ……いえ……今……」
「使えねぇなぁ……お前」
駅の事務所から出てきたのは、神部さんと同じ会社の人なのだろうか。
体格のいい男性で、なにやら高圧的な態度のまま、早口でまくし立てる。
神部さんは、すぐに地図を開き、なにやらその人に説明しているようだった。
私は携帯電話を取り出し、気づかないふりをして、その横を通り過ぎる。
今は、声などかけない方がいいだろう。
それが私の判断だった。
ただ、心の中で、『さようなら』と挨拶する。
神部さんのお父さんが事業に失敗し、彼の生活ぶりが変わった事は、
それからほんの数日先に、花子から聞くことになったが、
このときは、そんなこともよくわからなかった。
人生は色々なことが起こる。
神部さんにも何かを乗り越えて欲しいと、私は素直にそう思えた。
みなさんのおかげで 『ももんたの発芽室』 も3年を迎えます
これからも、ご贔屓に……(笑)
ポチリ……していただけたら、嬉しいです (@゚ー゚@)ノヨロシクネ♪
コメント
チュウーなんてしちゃったのかな?
それがいずみの後押しのお陰だって、素直に認められる良い子だ!!!!
キャッ(///o///)ゞ ムフフな関係に進んだのね。
親も公認。素敵じゃない♪
先生になるのか・・・きっといい指導者になるよ!
神部さんにも乗り越えて欲しいね。
後1話・・・
2011-10-23 19:32 yonyon URL 編集
うふふのふ
>理久、山を越えたのね。
それがいずみの後押しのお陰だって、
素直に認められる良い子だ!!!!
いずみの目の先に、自分がいること……
理久はそれを感じ取ったのでしょう。
人は、気持ちを切り替えれば、
前向きになれるんですよね。
>キャッ(///o///)ゞ ムフフな関係に進んだのね。
親も公認。素敵じゃない♪
キャッ……って、
yonyonさんが、何をおっしゃってるのやら(笑)
神部にも、色々とあったようです。
人の人生は、山あり谷ありということで。
さて、今日は最終回です。
ぜひ、お付き合いくださいね。
2011-10-23 20:56 ももんた URL 編集