35 Strain 【歪み】

35 Strain 【歪み】



昴の思いに気付くことのない悠菜は、残りの日々を静かに過ごそうと決めていた。

仕事だけのつながりなら、切れてしまうけれど、

昴とはこれからも続いていくのだから、

あとは自分がどう生きていくのかを決めるだけだと考える。

新年が始まり、仕事の引継ぎに忙しい昴のことを考えて、

それが少し収まった段階で、自分のことを語ろうと思いながらPC画面を見続ける。

それでも、視線を動かせば、すぐに昴の顔を見ることが出来、

悠菜は何度か顔を見ながら、これから始まる日々へ期待を膨らませた。





新年は、『salon』以外の企業にも同じように訪れる。

悠菜からの返事は『NO』だったが、勇の秘書江口は、

春から悠菜が働けるようにと、広報部へ席を作るよう指示を出していた。

曲がったことの嫌いな性格も知っているだけに、

すぐ助けを求めてくることはないだろうと思いながらも、

ここへ来てくれれば、一人で奮闘している社長の勇にも、

また新たなパワーが出るだろうとそう期待していた。

正面玄関に晴恵が到着するという連絡が入り、江口は部下に仕事を任せ、

急いで下へ向かう。

今日は、取引先の企業で、社長の還暦祝いをすることが決まっていて、

夫婦揃って新年の挨拶を含め、出席する予定になっていた。

黒塗りの高級車が玄関前に止まり、運転手が後部座席の扉を開けた。

晴恵は着物に身を包んでいるため、ゆっくりと車を下りる。


「奥様、社長は社長室でお待ちです」


晴恵は視線をまっすぐに向けたまま、江口を見ようとはしない。

まるでその存在を認めるものかと、あえて無視しているようにも思えた。


「……南雲は?」


南雲とは、江口の部下である秘書だが、実は上司である江口に隠れ、

晴恵が個人的な目的で仕事を与えていることが多いことは、すでに調べがついていた。

南雲は、社長とすれ違っていく晴恵から、勤務外の仕事が振られることに耐えかねて、

上司である江口に、先日、全てを打ち明けてきたからだ。


「申し訳ありません。南雲は秘書室から広報部へ異動させました」

「異動? そんなこと聞いていません」

「奥様、人事は会社内の問題です。
申し訳ありませんが、口を挟むことは控えていただきたいのですが……」


晴恵は、勇に長い間秘書として仕えている江口が、

自分を軽く見ている気がして、好きではなかった。

晴恵のわがままに勇が流されそうになるときにも、常に江口がそばで意見を言い、

何度も却下されたことがある。

そして、『隠し子』ともいえる悠菜の存在に焦りを感じている自分に対し、

その受け入れ口になっていることも、気に入らない。


「ノドが乾いたの。コーヒーを持ってきて」

「かしこまりました」


江口はしっかりと頭を下げた後、晴恵をエレベーターに乗せ、社長室へと向かわせた。





その日の昴は、特に急ぎの仕事があったわけでもなかったが、

営業部の中に残っていた。昼間聞きだした悠菜の話しを、いまだに整理できずにいる。

橋場の話をそのまま受け取り、

悠菜が『渡瀬』の家に入ることなく一人で暮らすのであれば、

『FLOW』での自分を、知られることもないと思ったりもするのだが、

すぐに気持ちは乱れ始め、実際、跡取りのいない渡瀬が、

悠菜を放り出したままにしておくとは思えず、

妻である晴恵と再会してしまう確率の方がはるかに高いと、昴の心を押しつぶす。


綾音の『立原音楽大学』での日々を支えるには、

当時、自分にはあの方法しか選択できなかった。

サラリーマンが誰の助けもない状態で、

高額な学費とそれにまつわる費用を捻出することは、

とてつもない大きな壁だったのだと、過去の自分をかばってみるが、

その心は何も晴れてこない。


昴は、悠菜の『素直さ』と『純粋さ』に惹かれた。

人を思う気持ち、地位や名誉がなければ幸せにはなれないというひねくれた思いを、

優しく溶かしてくれるような大きさが、とげとげしかった昴の心を包み込んだ。

社会的に地位のある父親の中に、自分を染めようとしないことは、

悠菜の本質から見たら、当たり前のことに思える。

誰もいなくなった営業部で、PC画面に『STW』を呼び出してみる。

本社ビルを構え、確実に業績を上げている一流企業。

見たこともないような桁の数字が並ぶスケールの大きさがあった。


昴は、思いを遂げられる方法はないかと、何度も気持ちを前に向けたが、

結局、最後は心を支配する靄を払拭できず、ため息だけを重ね続けた。





「ただいま」

「あ、お帰り。遅かったのね」

「あぁ……」


遅くなるのなら携帯に連絡くらい入れてと、綾音は昴に対し文句を言った。

昴はそれを聞き流し、すぐに部屋へ入ってしまう。



『渡瀬晴恵』



晴恵と初めて会った日、まだ、『FLOW』という組織に迷いのあった手は、

自分を見せることが恥ずかしく震えていた。

子供がいないと言い、パートナーが自分と過ごしてくれる日々を夢見た若い妻は、

思い描いていた未来に絶望し、契約者とその時限りの欲望に身をうずめる覚悟を決めた。

倫理や常識などを飛び越えた関係は、薬のような緊張感をうみ、

狭間で揺れ、震える手を自らの方へ導き、

『女としての悦び』に陥らせたのは昴自身だった。

そこにはもちろん『愛』もなく、ただ、『契約』という事実だけが存在し、

昴は晴恵を抱き、晴恵は昴を求め続けた。

忘れたはずの晴恵の吐息が、昴の耳に『あの頃』を呼び戻す。


部屋の扉が何度か叩かれ、綾音が『どうしたの』と声をかけた。


「ごめん、夕食は食べてきた」


昴はそう答えるだけで精一杯になり、しばらく部屋を出ることが出来なかった。





悠菜は次の日曜日、康江に会うため『小麦園』へ向かった。

子供たちのお土産と、バッグの中には以前父親を『調査』してもらった手紙が入っている。

自分を認めてくれた昴に、この事実を告げようと思い、

それを康江に報告するためだった。


「いらっしゃい」

「先生……」


いつもの食堂に入り、悠菜は子供たちへのお土産を取り出した。

崎本が贈ってくれたピアノは、すっかり子供たちの楽しみになっている。


「みんな喜んでいるでしょうね、このピアノ」

「うん……本当にありがたいことよ。綾音も学校が休みの日は、教えに来てくれるの」

「そうなんですか」

「今までの昴だったらきっと、そんなことは許さなかったでしょうけどね」


康江はそういうと、悠菜の肩をポンと叩いた。

悠菜は、まだ何も話していないのに、これからの話を悟られているようで頬を赤らめる。


「悠菜さんが、昴を変えてくれたのよ……」

「そんな……」

「あの子が自分を幸せにしようとするのは、初めてかもしれない」


康江は、本当に嬉しいと少し涙声になり、悠菜はその言葉を受け止めながら、

昴の綾音を預けるために来た時の、決意を固めた写真を見た。





悠菜が『小麦園』を尋ねている頃、綾音は大学のレッスン室にいた。

授業はもちろん休みだが、昨年の『クリアコンクール』で銅賞をとったため、

受賞者は、定期的に行われる協会のコンサートに、

それぞれが特別出演するというノルマが決まっていた。

2月に行われるコンサートに綾音が参加することが決定していたため、

今日は一日学校で弾き込もうと決めていた。

カーテンを開けて、冬の太陽を部屋へ取り入れる。

近くで鳥が飛び立つ音が聞こえ、綾音はその旅立ちを見送った。


そして同じ頃、昴は一人リビングに置いたピアノの前にいた。

悠菜の生い立ちから、現在の状況を知り、3月で退社をする現実を知り、

そして、綾音のためだと必死になった『FLOW』での日々が、

今となって自分を苦しめている事実に、押しつぶされそうになる。


このまま、何も知らないふりをして、悠菜のそばにいればいいとつぶやく心と、

そうすることで、結果的に一番苦しむのは誰なのかと問いかける心が、

昴の中で、葛藤を繰り返す。


晴恵との契約が、互いに納得し、何も思い残すことがなかったものなら、

『語らない秘密』として、胸にしまっておくことも出来るかもしれないが、

昴は、それが出来ないことも、強くわかっていた。

晴恵は、自分と結婚し、一緒に過ごすと宣言したパートナーに実は娘がいて、

探し始めた事実に腹を立てた。

そして、契約者に身を任せることが『復讐』だと哀しい目で言い続けた。

割り切っていると冷めた目を向けたはずの人は、

その場限りの関係に心を乱され、最後は互いに憎みあうように別れた。


それでも、悠菜にとって晴恵は、父の選んだ女性ということになる。



『自分を幸せにしない人は、人を幸せにすることなど出来ない』



昴が、どこか無理していることに気付いていた康江の言葉が、

葛藤を繰り返す心に、大きくのしかかった。





「会社を? 『salon』を退社するの?」

「はい……納得は出来ない部分もあるのですが、今の世の中の状況と、
相手側のことを考えると、それも仕方がないと思うようになりました」


悠菜は、康江に『salon』側から告げられた事実を語った。

『salon』という企業が、一族経営のため、

こういった出来事にとても敏感なんだと付け加える。


「そう……せっかく子会社から抜擢されて、仕事も覚えてきたところだったのにね。
だとしたらお父さんの会社に、お世話になるの?」

「いえ、それはしません」


悠菜は、『STW』には入らないと、しっかり言い切った。

康江は、向こう側は申し訳なさもあり、強く勧めてくるだろうと聞き返す。


「でも……入りません。私は本当に、母の過去を知りたかっただけで、
それを現在につなげたいとは、到底思えないので」


悠菜は、父である渡瀬勇には年の離れている現在の妻がいて、

もしかしたら、これから子供が生まれる可能性もあると、付け加えた。

康江は、悠菜がそう決めているのなら、それでいいのではないかと頷き返す。


「畑野さんが、部長代理になって、細かく動けなくなったので、
その仕事を私に譲ってくれると、そう言ってくれたのですが、断ることしか出来なくて」

「そう……これでやっと説明が出来るわね」

「はい」


悠菜の湯飲みに、康江がお茶を継ぎ足した。

悠菜は焼き物の温かみを手のひらに受けながら、両手で湯飲みを包み込む。


「どう……言ってくれるのかなって」

「どう……って?」

「そうか、そうなんだって、笑ってくれるでしょうか」


康江は、昴に全てを語ろうと思う悠菜に対し、

きっと笑って受け止めてくれると言葉を返す。


「そうですよね」

「そうよ。昴は悠菜さん自身を認めたのだもの。
あなたがどんな人たちと縁があって、どういう生い立ちにあったのかなんて、
関係ないじゃない。むしろ、昴はそういうところは他の人より、
わかっているはずだけれど……」

「はい」

「あの子も、苦労した子だから」


悠菜はその言葉に黙って頷いた。

年の離れた妹を育て上げた兄が、初めて自分自身を見つめたとき、

そばにいることが出来た幸運を、心でかみ締める。

悠菜は、康江に話をして、心の中がスーッとしたと笑顔を見せ、

湯飲みに入ったお茶を、グッと飲み干した。





江口の運転する車に乗り、勇は自宅へ向かう途中だった。

携帯に残るメールを確認し、そのままため息をつく。


「江口……」

「はい」

「家に戻る前に、あの道を走ってくれないか」


江口は、特に渋滞もないので、このままいけばいいのではと提案する。

勇は首を横に振り、『樫の木台』の方へ向かってほしいと指示を出す。


「……はい」


『樫の木台』の方にあるのは、悠菜が住むアパートだった。

江口は、勇が無理をしなくていいと言いながらも、

実際には悠菜に対する思いが膨らんでいるのだと、確信する。


「晴恵には、気持ちを見抜かれているようだ。
すぐに子供でも出来れば変わっていたのだろうが、
今では寄り添うことも、不満そうで……」


江口は、入社してからずっと勇のそばについていた。

秘書でもあり、弟でもあるような存在に、勇が唯一本音を語れる相手になっている。


「苗子が、別の男性と幸せになったと知ったなら、終える事も出来たのだろうが。
私は、何も知らずに暮らしていた。もっと早く見つけてやることが出来たら、
幸せにしてやることが出来たのかもしれない」

「社長、社長は探されたではないですか。しかし、相手の方がそれを拒んだのです。
ご自分を責めるのはやめてください」

「あぁ……そう思うのだが……」


車は大通りをしっかりと進み、少しずつ『樫の木台』へ近付いてくる。

店や会社のビルが目立つ景色から、少しずつ住宅街へと入りだした。


「悠菜さんは、苗子が育てた娘さんだと、頭ではわかっているつもりなのだけれど、
どうしても苗子と重なってしまって……」


『愛した人』の面影を、一番強く持つ女性。勇にとって悠菜は娘というよりも、

苗子の生き写しのようなものだと、江口は思っていた。


「社長、悠菜さんは『salon』からすぐにこちらへ入社しようとは思わないでしょうが、
時間をかければ必ず……いえ、私が必ず……」

「江口……」

「社長のおそばに、お連れします」


江口はさらにアクセルを踏み、車のスピードを上げた。

勇はそれに対して何も返事をすることなく、流れる景色を見続けた。





昴はその日、結局どこにも外出することなく部屋で過ごした。

レッスンを終えて戻ってきた綾音が、材料を買ってきたと言い、食事を作り始める。


「2月のコンサート、今回はチケット用意できないんだけど、
買ってもらえるとありがたい」

「わかっているよ。お前の学費の一部を協会が負担するんだ、
それくらい貢献しないとな」

「悠菜さんも、ちゃんと誘ってよ、お兄ちゃん」


綾音から悠菜の名前を聞き、昴は胸を締め付けられる思いがした。

当たり前のことなのに、逃げ場がなくなっていくような、

追い詰められる思いが、心を乱していく。


「うん……」

「……ねぇ、何かあった?」


綾音は昴にどこか元気がないように思え、そう問いかけた。

昴は別になんでもないと言いながら、

この場にいるとまた疑いの眼差しを受ける気がして、部屋へ入る。

携帯が点滅しているのがわかり、開いてみると悠菜からのメールが入っていた。



『大事なお話があります。今度、お食事でもしながら……』



『大事な話』がどういうことなのか、聞かなくても昴にはわかることだった。

こうなったら、自分も全てを語ってしまおうかと思い、携帯を握るが、

その手に力は入らずに、滑り落ちてしまう。

もし、悠菜が『FLOW』のことを知ったとして、誰か得をすることがあるだろうか。


もし、その真実を、綾音に語ってしまったら……

そう思うと、手に汗がにじみ出す。


妹をピアニストにするため、全てをぶつけてきたのはあくまでも昴の意思であり、

綾音には関係のないことだった。

そして、父親の妻になり、形式だけでも母となる晴恵に対し、

そんな『遊び』を許した父、勇に対しても、悠菜の気持ちが複雑になる。


誰も得をする人間などいない。


あれこれ考えた上で、昴に出せた結論は、それだけだった。





1月も半ば過ぎになると、朝の寒さは相当なものだった。

悠菜は、コートにマフラーをつけ、手袋をはめた完全防備で通勤する。

改札の手前で昴からもらったパスケースを取り出すと、

後ろから走ってきた別のサラリーマンに押され、下に落としてしまう。

慌てて他の人に踏まれないようにそれを拾い、一度追い出された流れにまた乗った。


車内では、大手百貨店で、『salon』の商品を含めた冬物セールの広告を目にし、

それをじっくりと眺めた。

子会社から、本社へ異動する前にも、車内広告を見ながら、

自分だったらこう営業して見せると、意気込んでいたことを思い出す。

営業成績だけで昴を相手に選び、自分の実力を知って欲しいとアピールしたのは、

つい最近のような気がするが、よくそんな大それたことをしたものだと、

思い出すだけでおかしくなった。

『salon』でトップを走る畑野昴は、

悠菜にとって、仕事にも、そしてプライベートでも魅力的な男性だった。

妹を一人で育て、世の中に対して、どこか突っ張っているように見えるけれど、

本当はとても弱いところがあって、それを素直に認める広さも持っている。

ラッシュの電車は、目的の場所に到着し、少しでも先へ行こうとする人たちが、

他の客を押し出すようにしながら、ホームに降りる。

悠菜も新しい日々の幕開けを期待しながら、昴がいる『salon』に向かって、

一歩を踏み出した。





『Flow』
時は誰にも、流れ続ける……
いつも訪問ありがとう。パワーの源、1日1回の『ポチ』……してくださると嬉しいな。

コメント

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更新頑張ってるね!

こんにちは^^
今週は、暑さもひと休みね。

サブタイトル「歪み」に、覚悟しながら読みました。
『Flow』はストレートな題が多いでしょう、読む前に緊張するのよね^^;

うーん・・・と登場人物と一緒に悩んでます。
昴のアルバイトが障害になることは避けられないようで、どうする!

もうすぐ夏休み、母には気の重い時期だね~@@
お互い頑張りましょう!

頑張るぞ

なでしこちゃん、こんばんは

>サブタイトル「歪み」に、覚悟しながら読みました。
 『Flow』はストレートな題が多いでしょう、読む前に緊張するのよね^^;

そうだね。タイトルはあえてストレートにしています。
想像してもらえる幅が、逆に広い気がして。

>うーん・・・と登場人物と一緒に悩んでます。
 昴のアルバイトが障害になることは避けられないようで、どうする!

悩んでくれているんだ。そうか、なでしこちゃんなら、どう持って行くのかな。

夏休み、来るねぇ……。
本当に重たい時期だけれど、乗り越えないとしかたないしね。
うん、お互いに頑張ろう!