36 Solitude 【孤独】

36 Solitude 【孤独】



悠菜が入る少し前に、昴が『salon』へ到着した。

橋場の前には笠間が立っていて、何やら分厚い茶封筒を受け取っている。

新しい契約の書類かなにかだろうと、昴は気にすることなく席に着く。

すると、大きなため息をともに笠間が席に座り、

橋場は会議があるからと、慌てて営業部を出て行った。


「朝から気分が重くなりました」

「どうした、何か失敗でもしたのか」

「いえ、これなんです」


笠間が出してきたのは、今、橋場から受け取った茶封筒で、

中に入っていたのは明らかに『写真』が入っているとわかる立派な厚紙だった。

笠間は、取引先の営業部長が自分を気に入ってくれて、

2番目のお嬢さんと見合いをしないかと勧めてくれたことを語る。


「見合い?」

「はい、まぁ、その時は営業中なので、
俺もつい『今、付き合っている人はいないんです』とか、
調子に乗って言ってしまって……でも、まさかですよ、
橋場部長と大学が一緒だなんて知らなくて」

「部長ラインから写真が届いたのか」

「はい……」


昴はバッグをデスクに置きながら、口元をゆるめた。

笠間は、笑わないでくださいと真顔で言い返す。


「笑っているわけではないよ。『見合い』くらいすればいいじゃないか。
もしかしたら本当に素敵な人かもしれないぞ」

「出た……その余裕ぶり」


笠間は、昴くらいになると、『絶対に相手がいる』と思われるのだろうが、

どこか、自分なら簡単になびくと思われているところが腹立たしいと、

その封筒を軽くデスクに放り出す。


「相手がいるのなら、正直にいると答えればいい。
笠間くらいの年齢で、彼女がいるのは当然だし、
向こうだってそれを別れてまでとは言わないだろう」

「いや……俺……」


笠間が反対意見を言おうと口をあけたとき、営業部に悠菜が顔を出した。

隣に座る前川が、雑誌を片手に近付き、今日のランチにどうだと誘い出す。

笠間は、悠菜が来たことを確認するように見た後、視線を下に落とす。


「……見合いってガラじゃないですから」


笠間はそういうと『コーヒーを入れる』と立ち上がった。


「畑野さんも、飲みますか?」

「……あぁ……うん」


笠間はわかりましたと返事をした後、そのまま歩き出す。

笠間に気付いた悠菜はデスクを開け、

経済新聞で見つけた『トランプ』社長のコラムを、切り取ったと差し出した。


「笠間さん、これ読みました?」

「あ……いや、読んでないや」

「だったらどうぞ。偶然見つけたんです。趣味の将棋について語っているので」

「将棋……」


悠菜は、ちょっとした話題でも、

自分のことを知ってくれていると、人は嬉しくなるものだと笑顔を見せる。


「そうか……将棋ねぇ」

「出来ますか?」

「少しくらいなら」


悠菜は、PCの中に無料で楽しめるゲームがあると笠間に教え、

ぜひ、社長と将棋を話題にしてくださいと提案した。


「ありがとう」


笠間はコラム記事を手に持ち、悠菜に向かって軽く頭を下げる。

『コーヒーを入れに行く』と言い立ち上がったのに、世間話でも始まったのか、

それからしばらく、笠間は悠菜の席のそばにいた。

昴は、『もしかしたら……』という視線を笠間に感じ、

話を楽しそうに聞き続ける悠菜の顔を見た。





仕事を終えた昴と悠菜は、別の駅で待ち合わせをし、食事に向かった。

落ち着いて話ができるところがいいという悠菜の希望で、『和食』の店を選ぶ。

小さな個室が空いていたので通してもらうと、

都心のビルの中にある店では珍しく庭園が見え、心が慌しい日常から切り離される。

二人分のコース料理を注文し、仲居は『ごゆっくり』と言葉を残し部屋を出た。


「すみません、色々とわがままに」

「いや、いい選択だよ。ここならゆっくり話ができるだろうし」


悠菜が語ることが、どんな話なのかわかりながらも、

昴はそう答えることしか出来なかった。

どうすべきなのか答えは出ているはずなのに、

ここまで来た自分の気持ちは、まだ、ふらつき定まらないでいる。


「今日は、見ていただきたいものがあって、持って来ました」


悠菜がバッグから取り出したのは、白い封筒と、小さな手鏡だった。

この手鏡は、亡くなった母の形見だと説明する。


「私の母は、一人で私を育ててくれました。
相手の男性とは、結ばれない事情があったので、一切どんな人物なのか、
生きている間、私に一度も語ってくれたことはありませんでした」


悠菜は、母が自分を必死に育ててくれたことをわかっていただけに、

それでいいと思っていたことを語り続けた。


「これは、母がその人からプレゼントしてもらった手鏡です。
初めての仕事が成功して、その記念に母に贈ったと……そう聞きました」


小さな手鏡は、真ん中をつかんで開けるようになっていた。

そのまま手に持つことも出来るが、裏へ返して掴む部分を支えに固定することも出来る。

見るからに日本製ではない作りになっていて、

昴は『STW』がヨーロッパ雑貨を輸入する企業だったことを、あらためて感じ取る。


「私には兄も妹もいません。ですから、母が亡くなった後、
本当にこの世にひとりになってしまったという実感があって、
その思いから『父』を探してみようと考えました。
母には言いませんでしたが、私なりに幼い頃から、空想だけはしていたんです。
私のお父さんはどんな人だろう、友達のお父さんのようにスーツを着て、
電車に揺られながら会社勤めをしている人かな……とか、
ご近所の酒屋のおじさんのように、小さなトラックで、
お客様に荷物を運んでいるのかな……とか」


悠菜は語りながら当時のことを思い出したのか、少し照れるように笑った。

昴は、あえて黙ったまま聞き続けたが、

だんだんと胸に何かが刺さる感覚が、強くなってくる。

悠菜の気持ちが正直で、素直であることに気付かされるたびに、

自分の心が、並べないほど汚れている気がして、

出された食事を、懸命にノドの奥へと押し込んでいく。


「私が父を探したことで、父も母を捜していたことがわかりました。
私の父は……」


昴は、この場から逃げられるものなら逃げてしまいたいと思った。

事実を聞かなければ、知らないふりをして、悠菜の心と向かい合える。


「『STW』の社長を務める、渡瀬勇さんでした」


昴の複雑な思いに気付くことのない悠菜は、父親が渡瀬勇であること、

母は、社長の息子である父と結ばれないと気付き、身を引いたこと、

すでに自分がお腹にいたこともわかっていたこと、勇に探されにくいように、

あえて祖母の苗字を語り、姿を消したことなど、順序良く語り続ける。


「一度だけ、お会いしました。あ……そうです、ほら、畑野さんに会いましたよね、
ホテルのロビーで。あの『THE CAPE TOKYO』の」


昴がまだ利佳子との時間を持っていた頃、偶然ホテルで悠菜と会った日、

普段なら契約だけを済ませホテルを去るのに、

その日だけは仕事に戻らなくてもいいという安心感から、利佳子に誘われた酒を飲み、

肌を合わせていた。


「あの日、初めてお会いして……母のことも色々と聞いたんです」


昴は、自分に別の顔があることを気づいたのではないかと、

慌ててホテルから逃げるように出て行った時のことを思い出した。

振り返ることなく歩き続け、悠菜の視線を振りきろうとした日、

あれから、ホテルへ入ることが少しずつ怖くなった。


「私、3月で『salon』を辞めることになりました」


悠菜は、昴が驚き、なぜなのかと問い返すことを期待し言葉にしたが、

昴は視線を下に向けたまま、何も問い返すことはなかった。

黙っているわけにはいかずに、そのまま『STW』が業務提携をしたこと、

自分が渡瀬の娘であったことを、なぜか『salon』の上層部が知り、

ライバル会社と縁のある社員を、営業部という場所に置いておくわけにはいかないと、

退社を迫ったことを語り続ける。


「ですから、仕事を他の人に振らなければならなくなったのは、
畑野さんの責任でも、何でもないんです。橋場部長も気にしてくださったのですが、
立場上、どうすることも出来ないようで……」


語り始めたときには元気だった悠菜の声も、だんだんと小さくなり、

最後は言葉が口から抜けていくようになってしまう。

鍋を暖めていた燃料がなくなったのか、小さく燃えていた炎がスーッと消えた。


「すみません、私、一人であれこれ話し続けてしまって」


悠菜は、そう昴に謝った。

昴は自分が心を隠しきれていないことに気付き、視線を前に戻すと、

聞きすぎてしまったと精一杯の笑顔を作ってみせる。


「住友さん……」

「はい」


自分の過去に『Flow』の時間がなかったら、そして悠菜が渡瀬勇の娘でなかったら、

言葉に出来ない思いが、出そうとしたセリフを止めてしまう。


「何か……」


聞いてもどうしようもないことだとわかっているが、

それでも、聞いてみたいことだった。

昴は、『salon』をやめて、『STW』に就職をするのかと問いかける。


「いえ……渡瀬さんの会社には入りません」


渡瀬のことを『父』と呼ばず、『渡瀬さん』と呼ぶ悠菜の気持ちは、

昴に痛いほど伝わった。この言葉を信じ、

このまま向かい続ける気持ちを素直に捉えるべきかと、また心が悩みだす。


「渡瀬さんには、奥さんがいるんです。まだ、年も若いみたいで、
子供も生まれるかもしれないし……」



『渡瀬晴恵』



ほんの小さな望みに全てをかけようとした心が、今のセリフに全て砕かれた。

大きな壁は、昴の前に立ちはだかり、隙間から光りをのぞくことすら許さない。


「亡くなった母だって、苦しいときがたくさんあったはずなんです。
それでも、渡瀬さんに助けを求めることなどしなかったわけですし。
私がそうするのは、間違っていると思うので」


悠菜は、自分の思いは当然のものだと、そう言い切った。

あとは昴の返事を待とうと、箸を進める。


「……そうですか」


昴はそう言うと、同じように箸を進めた。

仲居が部屋に姿を見せ、デザートを運ぶ時間を相談する。

メモに品物を書きとめ頭を下げると、また襖をゆっくりと閉めた。


「残念ですけれど、あなたならまた、いい企業に出会えますよ。
窮屈な思いで『salon』にいるより、その方がきっと……」

「……はい」


悠菜は、ここからどうしたらいいのか、わからなくなっていた。

こんな話をすれば普通、もっと驚かれ、残念がられるのではないかと、

勝手に思い込んでいた。悠菜の寂しい気持ちを理解し、

昴が、さらに心を寄り添わせてくれるはずだと、願っていた。

しかし、昴はあえて動揺を見せないようにしているのか、

それとも、興味すら沸かないのか、判断が出来ないような顔を見せている。

正直に語ることで、さらに近付くと思っていた心は、

どこにあるのかさえ、わからないほどになってしまう。

悠菜は、そこからなかなか箸が進まず、結局、3分の1ほど残してしまった。


「ごちそうさまでした」

「いえ……」


二人がビルの外に出ると、降っていたはずの雨はすでにやんでいた。

冬でも葉を揺らす木々の下を駅に向かって歩くと、一瞬強い風が吹き、

葉に溜まっていた雨粒が、まとまって悠菜の頬に飛んでくる。


「冷たい」


悠菜は、バッグに入れてあるハンカチを取り出そうとして、

店に忘れてしまったことに気付く。

今更戻るわけにはいかないと、指で水滴を取ろうとしたとき、

少し早く頬に触れたのは、昴の指だった。

悠菜を見つめる昴の目は、今までに見たことがないくらい寂しげで、

どこか思いつめているようにさえ感じられた。

まるで、このまま別れを告げる人のように見えてしまい、

『行かないでほしい』という思いに、悠菜は思わずその手をつかんでしまう。

悠菜の行動に、昴の表情は変わり、どこかうつろだった目は、

しっかりと前を向く。


「反対側を歩きましょう。また風が吹くかも知れない」


昴は、悠菜の頬から指を離し、まっすぐに前へ進みだした。





昴と別れた悠菜は、家に向かう電車に乗り込み、空いた席に座りただ下を向き続けた。

今日という日が、新しい出発の日だと考えていただけに、

どう捕らえていいのかわからないような昴の態度が、不安を膨らませる。

電車は停止信号が出たという理由で、急ブレーキをかけた。

予期せぬ出来事に、車内は一瞬静まりかえり、そしてその後、また声がし始める。

『渡瀬勇の娘であること』『3月で『salon』を退社すること』など、

あまりにも多くを語りすぎたために、昴が戸惑ってしまったのかもしれない。

悠菜はそう考えを固定し、迷い惑わされる思いにピリオドを打とうと、

視線を前に向けた。



同じ頃、昴は電車の窓に映る自分の顔を、じっと見続けていた。

何も知らないふりをして、きちんと話を聞こうと決めてきたのに、

結局、終始戸惑いの表情しか見せることが出来なかった。

思いがけない雨粒が、悠菜の頬を濡らした時、頭よりも先に指が向かった。

『涙』ではないこともわかっていたはずなのに、それを払いたくなった。

さらに先へ進もうとする悠菜の手のぬくもりに対し、

昴は思いを断ち切るように手を離し、距離を開けた。

どう迷っても、どう悩んでも、結局行き着く先は同じ場所で、

昴はどう顔を傾けても同じ動きをする、窓硝子の自分に背を向けた。





その2日後、昴はトラブル処理を兼ねて、長野へ出張することになった。

慌てて身支度を整えエレベーターを降りていくと、

受付に座っている女性から、『畑野さん』と呼び止められる。


「すみません、今から長野に行かれるのですよね」

「あ……えぇ」


昴は、受付担当の社員が、どうして営業部員の動きを把握しているのかわからず、

返事に戸惑った。受付の女性は、片方の女性に断りを入れると、

カウンターの中から外に出る。


「私、片桐初美と言います。突然すみません」

「何か……」

「小池専務から『川口繊維』の方へ連絡を入れてほしいと頼まれましたので、
これから畑野さんが向かうことも、先に伝えておきました」

「は?」


受付の片桐初美は、長野で『salon』の商品を受注している『川口繊維』の親戚になり、

社長の川口は自分の叔父であると語った。いきなり昴が訪れるよりも、

初美から事情を説明しクッションを入れる方が、

相手も気持ちを落ちつかせているだろうということで、依頼を受けたという。


「そうですか」

「畑野さんのことは、叔父に説明しておきました。とても優秀な方なので、
話せばわかってくれると……」

「ありがとうございます。優秀かどうかはわかりませんが、初めてお会いする方なので、
どう切り出そうかと考えていました。おかげで話のきっかけが作れました」

「いえ……お役に立てるのなら、嬉しいです」


初美はそう言うと、『いってらっしゃいませ』と丁寧に頭を下げた。

昴は『salon』の玄関を出た後、駅へ向かう道で携帯を開けた。

営業部長の橋場へ、すぐに連絡を入れる。


「部長、すみません、畑野です」

『おぉ、どうした』


ほんの数分前に出て行った昴からの連絡に、橋場は何か問題が起きたのかと問いかける。

昴は、受付で初美から聞いたことをそのまま、橋場に告げた。

橋場は何も上から聞いていないと言った後、すぐにため息をつく。


「どうされました」

『いや、思い出した。あの受付の片桐は、小池専務の強い押しで入社したんだ。
この1月』


受付の片桐初美は、短大を卒業した後、モデル事務所に所属し仕事をしていたが、

思っていたような活躍は出来ず、結局芸能の世界を退いた。

そして、『salon』と取引を決めた、会社社長の叔父が持つ縁から、

豊川との事件で退社した受付社員のポジションにつく。

元々、モデルであり、人前に出ることに対して自信のある初美は、

入社したばかりというハンデを気にすることなく職務に馴染み、

しっかりと『salon』に根を張った。


「とにかく、話が尽き次第、連絡を入れますので」


昴は橋場との電話を切ると、携帯をポケットに入れ、

地下鉄への階段を駆け下りた。





突然のトラブルで、昴が長野に向かったことを知り、悠菜はため息をついた。

どこかギクシャクした雰囲気を、早めに切っておきたいと思っていただけに、

『出張』の文字が、うらめしく感じられた。


「いただきます」

「美味しそうね……」


結婚を決め、悠菜よりも早く退社を宣言した前川は、

抱えていた仕事の整理をしながら、その日を指折り待っているように見えた。

誰も、同じ時期に悠菜が退社することなど考えてもいないため、

ランチへ行っても、話題は前川の結婚準備に集中する。

それでも、『いつかは自分も……』という明るい気持ちで話に加わっていると、

話題は別の方向へズレ始めた。


「そうそう、今朝、初美嬢、早くも狙いを定めたようで……」

「狙い? 誰?」

「誰って畑野さんよ。さすがモデル出身よね、きっと嗅ぎ分けるんだわ、
誰に近付けばいいのかどうかって。自分に自信もあるでしょうから、
押しが強いと思うわよ」


立場の決まった前川は、初美が長野に大きな工場を持つ『川口繊維』の親戚で、

条件は揃っていると語り出す。


「畑野さんが求めているのは、お金持ちのお嬢さん……言ったでしょ、前に。
まぁ、超一流企業とはいえないかもしれないけれどさ、悪くはないわよ」

「あぁ、そうだ、そうだよね。最後はそこかな、やっぱり。
『お金持ち』ねぇ、そればっかりはどうしようもないわ。
朝目覚めたら、実は自分は大企業の娘だった……なんてことないかしら」

「あるわけないじゃないの」


同僚の前川も他の社員も、途中入社した片桐初美に対しては、

モデル出身というねたみもあるのか、評価も厳しかった。

しかし、条件が揃っていることは最大の武器だと、互いに納得する。



『『STW』の社長を務める、渡瀬勇さんでした』



悠菜は、そう言いきった後に見せた、昴の表情を思いだし、フォークの動きを止める。

何かに向かって動き出した、遠くに見える流れを止めることが出来ないまま、

ため息だけを床に落とした。





『Flow』
時は誰にも、流れ続ける……
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コメント

非公開コメント

どうする、昴

笠間君が・・・ほっほ~、そっか~^m^

新しい登場人物、受付嬢の登場

なにやら新しい展開がありそうですね
この展開が二人にどう影響してくるのか
そして、昴はどうするのか・・・

この先が楽しみです^^

どうなるか

yokanさん、こんばんは

>なにやら新しい展開がありそうですね
 この展開が二人にどう影響してくるのか

はい、動きがありそうでしょ。
悩める昴とともに、考えて見てください。
これからもよろしくお願いします。