37 Calculation 【計算】

37 Calculation 【計算】



『川口繊維』での話を終えた昴は、予定より少し早めの新幹線へ飛び乗った。

初美が連絡していたことが幸いし、相手方は思っていたよりも気持ちよく出迎えてくれ、

トラブルになった要因の説明も、スムーズに行われた。

本来なら、もっと強く出られても仕方のないところだったが、

『salon』というメームバリューと仕事が出来ることは、

田舎に工場を持つ『川口繊維』にとって、ステータスとも言えることであり、

最後は逆に遠くまで来てくれたと恐縮された。


席に座り背もたれに寄りかかると、初めて疲れが押し寄せた。

目を閉じ、東京駅へ着くまで体を休めようとするが、頭がそれを許さない。



『『STW』の社長を務める、渡瀬勇さんでした』



答えを出さずにいる出来事が、態度を決めろと昴の脳を刺激する。

昴は横に置いたバッグから、キーケースを取り出し左手に握った。

発車のベルが鳴り、それが聞こえなくなるまで見続けると、バッグの奥へ押し込んだ。





具体的な報告は明日することになり、その日の昴は、そのまま家へ戻った。

学校からすでに帰っていた綾音が、コンサート用の曲を弾いていて、

部屋で着替えようとした昴の足が止まる。

『クリアコンクール』で受賞した演奏者が、活動費の補助をしてもらう代わりに、

持ち回りで参加するコンサートを聴くためには、

個人でチケットを用意しなければならない。

壁にかかるカレンダーを見たあと、すでに本番10日前だったことに気づく。


「お帰り」

「あぁ……」


綾音は楽譜を閉じると、『小麦園』の康江が、

コンサートを見に来てくれると連絡があったことを語る。


「お兄ちゃんはどうだって、気にしていたわよ、園長先生」


悠菜が、昴に事実を語ることを知っている康江は、それを聞いた後の様子を気にしていた。

昴は、そんな事情を知るよしもなく、特に変わりはないと素っ気なく言う。


「ねぇ、チケット買ってくれた?」


昴は近頃仕事が忙しく、つい忘れてしまったと謝った。

これからでも、急いで買うとフォローするが、すべて完売したことを聞かされる。


「完売したのか」

「そうよ、色々な音楽が聴けるコンサートだから、結構人気があるみたいなの。
そうか……買えなかったんだ」


綾音は少し残念そうな声を出したが、すぐに『次がある』と笑顔を見せる。

昴は、あれこれ考えているうちに、大切なことを忘れていたという自分への苛立ちに、

ネクタイを強めに引っ張ってしまう。


「お兄ちゃん……どうかしたの?」


綾音は、心配そうにそう尋ねた。

楽しみにしていたはずのチケットを、

買い忘れてしまうという事実だけでもおかしいのに、

ここのところ、どこか苛立ち、余裕がないように思えると気にし始める。


「仕事が忙しかったんだ。つい……次は気をつけるよ」


昴は、あまり深く追求されたくなくて、そのまま部屋へ入った。

ワイシャツ姿のまま、ベッドの上に寝転んで天井を見る。

いつまでも答えを引きずるのは、何よりも悠菜にいいことではない。

寝転んだまま引き出しを開け、1冊の通帳を取り出した。

『salon』からではないお金が、定期的に振り込まれていた通帳。

入っては全てが消えていく繰り返しを、何年も重ねてきた。

今となっては消してしまいたいけれど、決して消えない事実がそこにあり、

昴は通帳をケースに入れると、また引き出しに入れた。





悠菜が『salon』への道を歩いていると、後ろから人が近付く気配がした。

昴ではないかと思い振り返ると、走ってきたのは笠間だった。


「おはよう、住友さん」


悠菜はすぐに挨拶を交わし、笠間はそのまま横に並ぶと、1冊の本を取り出した。

『将棋入門』と書かれた新書サイズの本は、結構読み込まれた雰囲気のあるものだ。


「これ、社長に渡されたんだ。住友さんの話し通り、
将棋の話題をふったら『よく来た!』って雰囲気で」

「そこから会話が?」

「あぁ……でも、僕があまりにも下手なので、もう少し勉強して来いって」


試しに対局をと望まれ、勝負してみたものの、あまりの笠間の素人ぶりに、

社長は笑いが止まらなかったという。それでも笠間の人間性のよさを見抜き、

そこからの会話は、ものすごくテンポがよかったと振り返る。


「住友さんのおかげだよ」

「いえ……そんな」

「いや、なんだかさ、君の仕事を奪い取ったみたいで、どうも気持ちが向かなくて、
正直、あまり行きたい営業先ではなかったから」


悠菜は、事情を知らない笠間も、実は被害者のようなものだと思い、

申し訳なくなった。見せかけだけでも明るく振舞い、

もう少しやりやすくしてあげるべきだったと、自分の態度を反省する。


「笠間さんだから、安心してお任せできます。本当に気にせずに仕事をしてください」


悠菜の言葉にウソはなかった。まだ、営業部に慣れ切れていない頃から、

笠間には色々と話を聞いてもらい、励ましてももらってきた。

同じように昴の仕事を尊敬している人だと思い、仲間のような気分さえあった。


「ありがとう。僕もいつまでもこだわっていないで、頑張りますので」

「はい、ぜひ……」

「ただ、遠巻きにしていてもダメなんだろうなって、思うところもあるからさ」


笠間の言葉に、悠菜はその意味を考えたが、すぐにはわからなかった。

あわせて笑みを浮かべ、ただ頷いてみる。


「失敗を恐れずに、もう少し近付いてみようかな……」


笠間はそういうと悠菜に対し、また相談に乗ってほしいという。

悠菜は自分の出来ることならと返事をし、そのまま『salon』の玄関をくぐった。





二人よりも少し遅れたタイミングで、昴も『salon』へ入った。

受け付けを見ると、初美がすでに座っていて、昨日のお礼を言おうと声をかける。


「おはようございます。昨日はありがとうございました。
おかげで話がスムーズに進みました」

「あ……本当ですか? それならばよかったです」


初美は社長を務める叔父は、失敗は誰にでもあるが、

どう対応するかで価値が決まると、いつも口癖のように言う人だと付け加えた。

昴は確かに筋を持っている人のように見えたと、話を合わせる。

エレベーターが到着する音がしたため、初美に頭を下げ別れようとすると、

『すみませんが……』とその動きを止められた。


「何か」

「あの……」


初美はあまり人の前で語りたくなかったのか、受け付けの後ろへ回ったため、

昴もそれにあわせて動いた。

初美は一度だけお時間をいただけないかと、尋ねてくる。


「突然ですみません、でも……私、まだ入社したばかりで、
どなたに相談をしたらいいのかも、よくわからなくて」


初美は困った表情をしたまま、小さなメモを差し出した。

そのメモにはアドレスが記されている。


「お願いします……」


先に仕事で世話になっているという『事実関係』があったため、

昴は断ることが出来ずに、そのメモを受け取った。





悠菜は、昴の仕事を確認し、あらためて食事の時間が取れないかとメールを入れた。

暦は2月を目の前にし、来週明けにも『退社』を発表することになる。

その前に、どうしても気持ちだけは確認しておきたかった。

昴は、勤務終了少し前に、今日は無理だけれど、明日ならと返事を寄こす。

悠菜はわかりましたとさらに返信をし、携帯をバッグに戻した。





その日、昴は悠菜からの誘いを断り、初美と待ち合わせをすることになった。

どんな相談ごとかはわからないが、あまり時間をかけるよりも、

無理なら無理だとすぐに返事をした方がいいと考えた。

『salon』の裏にあるコーヒーショップを待ち合わせ場所にしたため、

昴が顔を出すと、すでに初美は席に座っていた。

脚を組み、本を読んでいる姿も目を引くようで、

仕事帰りに休もうと入ってきたサラリーマンが、視線を向ける。


「すみません、遅くなって」

「あ、いえ……こちらこそすみません。急なことでご迷惑かとも思ったのですが。
本当に、他にどなたへ相談すればいいのか、わからなくて……」


初美は昴に頭を下げ、本を閉じるとバッグに入れた。

昴は、小さなテーブルにカップを置くと、向かい合うように席についた。


初美の相談は、豊川のことだった。

受け付けの仕事に着いてからすぐ、豊川に声をかけられ食事に誘われた。

もちろん、会社の偉い人だとわかっていただけに、何度か断らず応じたが、

豊川はさらに『個人的な交際』を迫ってきたという。


「お食事くらいは、別にどなたとでもするものでしょ。
でも、豊川部長は、それだけでは済まないと言うか……」


豊川は、3度目に食事をした後、ホテルの部屋を取ると言い始めたらしく、

初美はこのままではまずいと、その日は体調が悪くなったと逃げることにした。

『個人的なお付き合いは遠慮する』というセリフを、色々変えながら語るものの、

豊川は簡単に諦めず、その後も誘ってきたため、ついその場限りの言い訳をしたという。


「好きな人がいますとそう言いました。
豊川部長に誰だと聞かれて、それで……畑野さんだと」


初美は、本当に申し訳ないと深く頭を下げた。

昴は、関わりたくない豊川の前にまた名前を出され、思わずため息をつく。


「本当にすみませんでした。お会いして謝らないとと思いながら、
なかなかチャンスがなくて。それで今回、叔父のことでお話をする機会が出来たので、
これはと……」


昴はどうして自分の名前を知っていたのかと、初美に問いかけた。

初美は、昴が毎朝、通勤時間に目の前を通っていたため、

隣の同僚に名前を聞いたと説明する。


「素敵な方だと……本当にそう思っていたので」


それまで、申し訳ないと、眉を寄せていた表情が、一瞬で変化した。

初美の視線はしっかりと昴を捕らえ、少し上目遣いになる。


「畑野さんと、朝、ご挨拶をするのは、本当に嬉しくて。
いつかこうしてお話ができたらと思っていたのは事実です。
でも、勝手にお名前を出してしまったことは申し訳なくて、
豊川部長から変な形で吹き込まれてしまうよりは、自分でお話をしておこうと……」


初美は、ずっと胸につかえていたので、ほっとしたと笑顔を見せる。

昴は、初美が勝手に人の名前を利用したという事実に、あきれ返ったが、

受け付けの女子社員と『妊娠騒動』を起こして、まだそれほど経っていないのに、

また同じようなことを繰り返そうとする豊川に対しては、さらに怒りが増した。


「でも……」


初美はそういうと、また上目遣いで昴を捕らえた。

一つだけ質問してもいいですかと、不安そうに尋ねてくる。


「何でしょうか」

「もし、畑野さんに決まった方がいるのなら、
いえ……その方がもし、『salon』の中にいるのなら、
ご迷惑をかけてしまうのかなと、そう思いまして」


昴の相手が社内にいるのかどうか、初美はそう問いかけてきた。

昴は、自分を相手に魅せるための計算に余念がない初美の視線を受けながら、

カップを手に取ると、コーヒーに口をつける。


「畑野さんには、決まった方が……」

「豊川部長は、そう片桐さんがウソをついてから、どうなっているのですか?」


初美の問いかけの返事をすることなく、昴は逆に尋ね返した。

初美は、それでも何度か誘いがあると返事をする。


「そうですか。豊川部長は、片桐さんにとって個人的なお相手にはなりませんか?」


昴はそういうと、男は単純な生き物なので、食事に誘って数回受けてもらえたら、

次のステップへ進みたいと思うのは、ごく普通のことだと付け加える。


「でも……」

「でも?」

「色々と、問題行動のある方だと、そう伺っています。
特に女性にはだらしがないと……」


初美は、豊川が以前、他の女子社員と揉め事を起こしていることを、

小池専務からすでに聞いたと言う。


「あなたに対しては、違うかもしれませんよ」


昴はそういうと、手に持ったカップに口をつけた。

初美は、昴が自分をからかっているのかと、少し口を強く結ぶ。


「生理的に、受け付けないタイプです……とは言えませんよね、さすがに」


初美は、昴の言葉にしっかりと頷いた。

『好きではない』という気持ちを、堂々とアピールできたらいいのだが、

人に哀しい顔をさせたくなくて、つい誘いを受けてしまうのが悪いのかもしれないと、

自らを分析する。


「お食事をすることが楽しくても、それより先となると、私にも色々と……」

「……そうですか」


昴は初美の方へ視線を向けずに頷くと、お話は理解しましたと席を立った。

初美は、帰ろうとする昴に、まだ質問の答えをもらっていないと食い下がる。


「質問?」

「はい……畑野さんには個人的に……」

「申し訳ないですが、人の心を探るような問いかけに、答える必要があるとは思えません。
私が個人的にどういう時間を誰と過ごそうが、それは自由だと思うので……。
個人的な質問があるのなら、わかりやすく正面から問いかけてください。
僕には、あなたが何を言っても、どこかに飛ばすような力はありませんので」


昴はそう初美に言い残すと、カップを手にしたまま店を出る。

昴は、初美が自分の美しさに自信を持ち、

食事をしただけで誰もが自分の方を向いてしまうと、何気なく言い切ってしまうことが、

鼻についてならなかった。豊川に対しても、適当にあしらっていながら、

それを迷惑だと言い切る気持ちが理解できない。


飲みかけたコーヒーを側溝に流し、コンビニの前にあるゴミ箱にカップを捨てる。

今から戻れば綾音と食事が出来るだろうと、駅への道を急いだ。





昴は、初美の言葉に、軽く腹を立てたまま店を出てきたが、

これから自分がしようとしていることも、同じ気がして気分が重くなる。

悠菜が渡瀬勇を父に持つ事実を知り、自分とは不釣合いだと身を引くつもりだった。

しかし、豊川と初美のようにただ食事をしただけではなく、

自分は何も知らなかったとはいえ、惹かれている気持ちを悠菜自身に伝えている。

それを今さら繕ったようなことを言うのは、あまりにも誠意がない。

思い切って、全てを話してしまおうかと考えるが、

切りようのない親子の関係を考えると、

晴恵が『FLOW』を利用している事実を、告げるべきではないとも思えてくる。

どう考えてみても、全ての人が無傷ではすまないのだと、昴は大きく息を吐いた。





「長野は寒かったですか?」

「そうですね」


次の日、昴が悠菜と会うために選んだ店は、オフィスビルの中にあった。

夜景も素敵な場所だからなのか、人気店らしく、すぐに外側に列が出来る。

始めは仕事の話をしていたのだが、やはりいつもに比べるとつながりが悪く、

気付くと何も話さない時間が、少しずつ重なっていく。

昴は、目の前に座る悠菜の顔をじっと見た。

これから始まる話が終わった時には、

もうこれだけ穏やかな顔を見ることは出来ないだろうと考える。

食事もほぼ終了し、目の前にはカップが二つだけになった。

昴は、その時が迫ったのだと、自分の手をじっと見る。


『FLOW』に出入りしていたときのように、

エレベーターの中で、本当の自分を脱ぎ捨てたように、別の自分を前に送り出す。


「この間はすみませんでした。私が一人で話してしまって」

「いえ……」


昴の目の前には、高層ビルがいくつも輝きを放っていた。

利佳子は昴と最後に会った日、広太郎の持ちものだと、指でビルを数えた。

目の前にいる悠菜の後ろにも、そんなビルを持つ父親が存在する。

相手をすることが出来なくなり、妻に遊びを許す男は、

少し背伸びをすれば届くような距離ではない場所にいた。


「住友さん……」

「はい」

「ここからは私の話を聞いてください」


悠菜は昴の言葉に頷きながら、

どこかしっくりこなかった理由がわかるのかもしれないと、姿勢を正す。


「実は、先日、住友さんの話を聞いて、私なりに色々と考えました。
住友さん自身が懸命に生きてきたことは、近藤先生からも伺っていましたし、
私自身も、それはわかってきたつもりです。でも……」


昴は、絶対に失敗できない演技がスタートしたのだと、自分を奮い立たせる。

女性と会うときに、時間だけを気にし、その裏にある『契約』だけを意識した、

あの頃の自分を呼び戻そうとする。『愛』などその空間にはどこにもなく、

決まりごとをただやり遂げるだけの時間が始まった。


「冷静になり考えると、やはりこのままの方がいいのだと、そう思うようになりました」

「このまま?」

「はい……」


昴は、どうせ新しい環境に飛び込むのなら、

人間関係も引きずらない方がいいと提案した。


「あなたがこれからも、『salon』で一緒に仕事をしていくものだと、
そう思っていました。でも……そうではなかった」


大企業の父を持つ以上、直接関わりを持たなくても、無関係ではいられない。

昴はそう理由を付け足していく。


「そうでしょうか、私は未成年ではないですし、
渡瀬さんにも、お互いに離れた関係でと、以前お会いしたときにきちんと話しました。
『salon』からそれを理由に退社を迫られたのは仕方がないにしても、
畑野さんにそう言われるなんて……」


悠菜の言うとおりだった。仕事の環境が変わろうとも、

人としての生き方を変えるわけではない。


「親子の関係は、簡単に突き放せるものではないと思うので……」


昴は、渡瀬勇のそばにいる晴恵のことを思い浮かべ、悠菜にそう告げた。

ここで振り切らないと、事実を知り、一番傷つくのは悠菜になる。


「……畑野さん」

「……好きな人がいます」


昴の言葉を受けた悠菜の目は、

深い池に、一羽残されてしまった小鳥のようにうつろだった。





『Flow』
時は誰にも、流れ続ける……
いつも訪問ありがとう。パワーの源、1日1回の『ポチ』……してくださると嬉しいな。

コメント

非公開コメント

いつも楽しみにしています。
昴の辛い部分もわかるような気がしていますが、
こんな逃げ方をすれば、さらに悠菜が辛い。
それでもドキドキしながら、二人の行く先を見守りたいです。

追伸
先日、初めてここを知りました。
これから色々と読み進めたいと思います

ようこそ

べるりなさん、こんばんは
発芽室を見つけてくださって、ありがとうございます。

Flowが読み始めということでしょうか。
色々とありますので、お時間のあるときに、
試し読みしてください。

昴と悠菜のこれからも、
応援してやって下さいね。