43 Wish 【願い】

43 Wish 【願い】



昴の左手の傷は、数針を縫うものになった。

医者は通院で治せばどうだと言ったが、昴の様子がおかしいと思った綾音は

入院させて欲しいと食い下がる。

昴も有給休暇が残っているので、試験で忙しいという綾音の理由を受け入れ、

2日だけの入院を許可してもらう。

昴は、4人部屋のベッドに座り、包帯を巻いた左腕を見た。

昨年のクリスマスから5ヶ月、どうしてこんなことになってしまったのかと、

大きくため息をつく。

隣に寝ている男性は、昴の気持ちなど知る由もなく、

ギプスで固められた足を見せながら、工事現場で鉄骨が落ちてきたと笑った。





次の日、悠菜は時計を見ながら、綾音の待つ店へ向かった。

今朝、携帯に綾音からの連絡が入り、どうしても会って欲しいと言われたが、

正直、気分は重かった。


『兄が、このままだとおかしくなってしまうから』


訴えかけるような綾音の言葉と、それが昴のことであるとわかり、

悠菜は断ることが出来なかった。

扉を開けると、店員にいらっしゃいませと声をかけられる。

店内に目を動かすと、窓際に座っている綾音を見つけた。


「綾音さん」

「あ……悠菜さん」


綾音は悠菜の顔を見て安心したのか、固い表情を少し柔らかく変えた。

悠菜はウエイトレスにアイスティーを注文し、綾音の目の前に座る。

急に慌てて呼び出すほど、大きな出来事があったのかと問いかける。


「昨日、兄が酔って帰ってきて、ワインの瓶を割って、破片で左腕を怪我をして」

「瓶の破片?」

「はい……。結局左手を5針も縫う怪我になりました。
でも、なんだか近頃おかしくて。お酒を飲んで帰ってくるのは毎日のようだし、
私と向きあって食事をすることも減ってしまって、部屋に入っているだけなんです」


綾音は、年が明けてしばらくしてから、昴はずっとそんな調子を続けていると語った。

悠菜には、昴がそんな生活をしていたことなどわからなかったため、

どう返事をしていいのか、答えにつまってしまう。


「昔の兄も、何を考えているのかわからなくて、
向かい合いながらいつも緊張していました。
でも、今の兄はもっとわからないというか……全てがどうでもいいような、
そんな気がしてしまって」


悠菜が知っている昴から、そんな姿は想像すら出来なかった。

送別会の日、挨拶をしてから、

昴は別の道をしっかり歩き出していると、疑うこともなく過ごしてきた。


「悠菜さんには、『好きな人がいる』と言ったそうですね。園長先生から聞きました。
でも、そんなことウソです、絶対にウソ。だって、だとしたらありえないもの、
こんな生活」

「綾音さん……」

「だって、人を好きになったら、そんなだらけた日常にはならないでしょ。
毎日に張りが出て、なんてことのないことが楽しくて、笑顔が自然と出るような、
それが『人を好きになる』ことじゃないですか?」


綾音は、昴は何かを隠しているのだと、そう訴えた。

悠菜は、綾音がどうしてそういうのかがわからず、理由を尋ねてみる。


「昨日、兄が言ったんです。瓶の破片を私も拾おうとしたとき、
『腕なんてどうでもいい、お前だけは傷つかないでくれ』って」

「お前だけは?」

「はい……こんな男のためにお前だけはって。兄は誰かを傷つけてしまって、
その思いを言えずに隠しているんじゃないかって、私、そう思って……。
もしかしたら、その相手は、悠菜さんじゃないかと」


綾音は、昴が悠菜を傷つけてしまったと思い、

気持ちが乱れているのではないかと言い始めた。

悠菜は昴がそこまで気持ちを乱すのは、他に理由があるのではないかと考える。


「綾音さん、お母さんのやけどの話、聞いたことがある?」

「母のやけど……ですか? なんとなくは覚えているけれど、あまり……」

「畑野さんから、聞いたことはない?」

「兄からですか? いえ、何も」

「そう……」


悠菜は、以前昴から、幼い頃、自分がふざけていて、

母の手にやけどを負わせてしまった話を聞いたことがあると、綾音に語った。

昴は、その傷ついた手を見るたびに、申し訳なさがあり、

母の願いを実現させようと、綾音をピアニストにするため努力してきた。

綾音は、昴から何も言われたことがなかったと驚きの顔を見せる。


「畑野さんはきっと、そのことを思い出したのよ。お母さんを傷つけてしまった、
また、この破片であなたの指が傷ついたらって……そう思って……」


悠菜は『小麦園』に貼ってある、昴と綾音の幼い写真を思い出した。

絶対に自分がという強い思いが、昴の表情に表れていた。


「でも……」


綾音は、それも理由かもしれないが、

やはり悠菜への思いがあるのではと言い続ける。


「悠菜さんが大企業の社長さんの娘だって知って、兄はウソをついた気がします。
私たちには親もいないし、頼れるほどの親戚もいません。
好きだと思った人が、そういった事情を抱えていると知って、
つい、心にもないことを言ってしまったのではないかって」


何も答えを返さない悠菜に、綾音は『違いますか?』と何度も尋ねた。

悠菜は、綾音の気持ちはわかるが、正解と言い切れず黙ってしまう。


「私たちには、頼りになる親も親戚もいません。
でも、兄が一生懸命に生きていることは、一番悠菜さんが知っていることでしょ?
交際相手として、問題になりますか?」

「綾音さん」

「悠菜さん、お願い、兄を助けて!」


綾音の必死の頼みに、悠菜は返事を出来ずにいた。

もし、綾音の言っていることが本当であったとしても、

それほどまでにして、自分との距離を開けた昴の気持ちを考えると、

会っていいのかがわからなくなる。


「わかった……畑野さんが退院したら、一度話をするから」

「本当ですか?」

「うん……」

「お願いします」


悠菜は、それでもそう答えることしか出来ず、

少し笑顔を戻した綾音を見ながら、何か食べようかと問いかけた。





昴は、自由になる足で病室から庭へ出ると、初夏の風を受け続けた。

緑の香りが鼻に届き、白い蝶が蜜を吸うために、目の前を飛んでいる。

真実を隠し、繕うだけ繕っても、穴だらけの感情は、隙間から漏れ続け、

余計にことを複雑化させた。

悠菜にまっすぐな思いを向けた笠間、自分にまっすぐな思いを向けた悠菜。

兄を心配し泣きそうにになった妹の綾音。

結果的に、誰一人として抱える真実は知らず、

無責任に振舞う昴を責めようとはしない。

昴はポケットに入れてきた携帯を取り出し、ボタンを押す。

何度か呼び出し音がした後、『はい』と声がした。


「もしもし……先生、昴です」

『あら、昴、どうしたの』


康江は昴の事情など何も知らずに、明るい声で返事をした。

今日は夏になったように暑いわねと言い、また綾音とケンカでもしたのかと尋ねてくる。


「先生、お話したいことがあるのです。お時間をいただくことは出来ますか」

『話? いいけど……』

「誰もいない場所で、話がしたいのです。
私が電話をしたことも、綾音には言わないでください」


昴の真剣な申し出に、康江は『わかったわ』と返事をする。

二人の電話はそこで終わり、昴は携帯をポケットに押し込んだ。





『兄を助けて』



そう綾音に頼まれたものの、悠菜の気持ちは複雑だった。

今更、何を理由に昴と会えばいいのかがわからない。

名刺は笠間を通じて渡してしまったし、いきなり呼び出すというのも無理がある。

人の流れが一方に向かい、悠菜は歩みを止める。

目の前に聳え立つのは、『STW』の本社ビルだった。

先日は、江口に会うためこの玄関を通ったが、

今日からは社員としてこの玄関を通ることになる。

受付に座る女性に『おはようございます』と声をかけ、エレベーターに向かう。

3階に降り、廊下を歩くと、見慣れない顔がきたことに社員たちが振り返った。


「今日から、広報部に入ってもらった住友悠菜さんです」

「住友悠菜です」


『salon』の時も途中入社だったため、しっくりこない場所で頑張ることには慣れている。

始めは空気がおかしいのは当然で、悠菜は自己紹介を済ませると、

決められた席へ向かった。


「私は、沖本まどか、よろしくね」

「よろしくお願いします」


隣に座った沖本まどかは、

同じくらいの女性が来てくれたのは嬉しいと、すぐに笑顔を見せてくれた。

悠菜も話しかけやすそうな同僚に、ほっと胸をなでおろす。

すると廊下が少し騒がしくなり、ガラス張りの窓から何げなく見ると、

数名の男性と一人の女性が、歩いているのがわかった。


「あ……」

「何? 誰? お客様?」

「珍しい……奥様だ」


廊下に現れたのは、悠菜が今日から勤務することを知った晴恵だった。

田尾はすぐに気付き、内線でどこかに連絡を入れると、廊下へ出る。

悠菜は、晴恵が自分を見に来たのだということはすぐにわかった。

こんなつもりはなかったが、結局、父親の誘いどおり中に入ることとなってしまい、

現在の妻としては、穏やかではいられないだろうと考え、下を向く。

田尾は、社長なら上にいらっしゃいますと晴恵に声をかけた。

晴恵は『わかっているわ』と答えるだけで、その場を動こうとしない。

悠菜は顔を上げ、その場で立ち上がると、晴恵に向かってしっかりと頭を下げた。

初めて見る父親のパートナーは、自分とあまり年が変わらない女性に見える。

エレベーターから江口が降りてきて、晴恵の前に立った。

社員たちが気をつかうので、上がって欲しいと意見をする。

晴恵は、数秒悠菜と目をあわせた後、江口の指示に従い、エレベーターで上へ向かった。


「あぁ……びっくりした。珍しいのよ、ここに顔を出すのは」

「そう……」


『salon』にいた経験からも、晴恵の着ている服が、高級品であることはすぐにわかった。

社長の妻として、それなりの仕事もあるはずで、その堂々とした振る舞いに、

自分の母との違いを、思い知らされる。

居心地が悪いのはわかっていたのだから、

悠菜は隣の沖本が広げてくれた資料を見ながら、せめて早く仕事を覚えようと、

メモを取り出した。





「このようなことをされるのは、困りますと、お伝えしたはずですが」

「何が困るのかしら。途中入社の社員が入ったのでしょ。
どういう人なのか興味を持ったのよ」

「だとしても、困ります」


晴恵を社長室へ向かわせた江口は、勇のいる部屋へ入る前にそう進言した。

晴恵は、江口の顔を見ることなく、社長室への扉を開ける。

予期せぬ妻の登場に、勇は顔を曇らせた。


「今日はお稽古だと、そう言わなかったのか」

「あなたが私に隠し事をするから、隠されないようにしただけです」

「隠し事をしていたわけではない。彼女の事情もあって、入社が今日になっただけだ」

「彼女……へぇ……」


勇は、立ち上がり晴恵の横に立つと、いい加減にしなさいと声をかけた。

晴恵はその声を振り切るように向きを変え、脚を組む。


「私に興味がなくなったのかと、そう思っていたよ。
こうしてむきになって来るということは、まだ気持ちがあると思っていいのか」


勇は、晴恵に家へ戻るように告げると、内線をかけようとする。

晴恵はその手がボタンに向かうのを阻止し、勇を睨みつけた。


「あなたには何もわかっていない。私がどういう思いでこうしているのかが……」


晴恵はそのまま一人社長室を出ると、頭を下げている江口を無視したまま、

エレベーターの方へ向かった。





2日の入院を終え、昴は部屋へ戻った。

心配する綾音に、しばらくお酒は飲まないと約束をし、眠りにつく。

次の日、普通に仕事へ向かう支度を済ませ家を出ると、昴の足は『salon』ではなく、

『小麦園』へと向かった。最寄り駅で降りると、目の前にバスが止まる。

客が全て降りた後、運転手が忘れ物の確認をし、あらたな客が乗り込んだ。

5月の青空は、小さな雲がいくつか浮かんでいる。

眩しすぎるくらいの日差しに、昴はブラインドを下ろした。


「いらっしゃい、昴」

「すみません、先生。お忙しいのに」

「いいのよ、本当なら別の場所でゆっくり食事でもと思ったけれど、
私がここを抜けていくわけにはいかなくてね」

「わかっています」


誰にも聞かれたくないと言った話は、『小麦園』の中にある、

康江の部屋で聞くことになった。普段の昼間は、子供たちが学校へ通っているため、

康江にとっては一番好都合だからだ。

先に部屋へ通された昴は、康江がたんすの上に乗せてあるダンボールを見た。

それには以前、康江から説明を受けた悠菜の手紙が入っている。

悠菜は、人様の問題に軽く口を出すような人ではないと、

康江から強く怒られたことを思い出す。

悠菜は康江の言葉どおりの女性だった。


「さて、お待たせ」


康江は麦茶を差し出すと、小さなテーブルの上に置いた。

正座をしている昴に、足を崩しなさいと膝を叩く。


「昴に聞きたいことが、私にもそれなりにあるのよ。
でもね、あなたがこうして来てくれたのだから、まずは話しを聞かせてちょうだい。
きっと、それで解決できる気がするから」


康江は、昴に『全てを話しなさい』という意味を込めて、そう表現した。

昴は覚悟を決めてきたと、頷き返す。


「先生、これから全てを話します。でも、約束をして欲しいんです」

「何?」

「綾音には……何があっても言わないと」


康江は、真剣な昴の表情に、わかったとしっかり頷いた。


「母の願いは、ピアニストになることでした。僕がそれを聞いたのは、
小学生に入ったばかりの頃だったと思います。
『立原』の見える公園で、叶わなかった思いを聞きました」


昴は、自分が幼い頃、母にやけどという傷を負わせてしまったことが辛く、

母の願いを、どう叶えてやるのか考え続けながら生きてきたことを語った。

自分にはその素質はなかったけれど、妹の綾音は母の影響でピアノに興味を持ち、

いつも楽しそうに弾いていた。


「だから、自分の力で綾音をピアニストにすることが、
母への負い目を解消する方法だと、そう信じてきました。
でも、現実はそう甘くはなくて。
自分が大学へ通いながら、『立原』の学費がどれだけかかるのかを知りました。
しかも、普通に授業を受けているだけではダメで、
コンクールに出るためには、個人で衣装も用意しなければならないし、
教授の個人的なレッスンにも、顔を出さなければならないのです」


昴は、最低限の生活をしながら、なんとか少しずつ貯金をしていったものの、

とても綾音を『立原音楽大学』へ通わせ続けるだけの金額を、

サラリーマンの給料だけで、確保することが出来なかったと、話した。

康江は黙ったまま、その話を聞き続ける。


「仕事を終えた後、アルバイトをさせてもらおうと、飲食店をあちこち歩いて、
『FLOW』というバーにたどり着きました。
皿洗いでもと頼み込んだとき、そのオーナーから、違う仕事を紹介されたのです」


康江は、手に持っていた布巾を、強く握り締めた。

心のどこかで、昴の資金調達がどうなっているのかと思っていたこと事実で、

その方法を聞いた後、どうすべきなのか気持ちが慌しくなる。


「世の中には、『愛情』というだけでは成り立たない関係があります。
仕事のため、世間体のため、そして自分の暮らしをよくするため、
何かを我慢して誓いを立てる。でも……そんな関係の中で、心の隙間が生まれてくる。
それを解消するのが『FLOW』の仕事です」


地位のある男性が、伴侶を得たものの、色々な事情があり満足させられない関係になり、

それを世間から知られないために、『遊び』を許可する。

『不倫』とは違う関係が、『FLOW』には存在した。


「パートナー公認の、浮気相手です」


昴は、綾音が大学に通う前から、『FLOW』に在籍し、

大学にかかる全ての費用を、その契約でまかなってきたと話し続けた。

女性との契約は、たった1度のものもあったり、数年になった人もいる。

それが素晴らしいことだと考えたことは一度もなかったが、

当時の昴には、それしか考え付かなかった。

康江は、昴が『FLOW』の話しになってから、ずっと下を向いていることに気付き、

どれだけ苦しいことだったのかと、辛くなる。


「最低なことだと、今はそう思います。でも、当時の僕は、これで綾音の夢、
いや、母の夢が叶うのなら、その満足感で全ての感情がリセット出来ると、
そう信じてきました。無能な上司に対しても、ぬるま湯につかって、
実力を得ることが出来ないおろかな人間だと思うことで、
精神的なバランスを保ってきた気がします」


康江の脳裏に、ここで繰り返されてきた光景が蘇った。

『小麦園』を卒園してから、結局、自分がどう生きていいのかわからずに、

手っ取り早くお金を稼ぐ仕事へ、身をうずめていく子供たちも数名いたからだ。

疲れ果てて自分に会いに来た時、ただ抱きしめてやることしか出来なかった。

助けてくれる手のない者が、必死に生きていくには、それしかなかったと言われると、

否定することが出来なかった。

昴が女性なら、その可能性を疑ることも出来たのだが、男性だったことで、

康江もそこまで考えてやることが出来ず、結局時だけが流れ続けた。


「先生に言われましたよね、
自分を幸せに出来ないものは、人を幸せにする資格がないって」

「そうね……」

「僕には、始めから綾音を幸せにする資格などなかったのです。
綾音の思いを見抜き、自分の道を歩ませてくれたのは、僕ではなく……」


自分とケンカをして飛び出した綾音をかばった悠菜と、

『ピアノに愛がある』と綾音を褒めた裕。

昴は、二人がいてくれたから、今の綾音があると言う。


「僕のしたことは、結局、綾音を追い詰めただけでした。
これだけやっているのにって、気持ちを押し付けてしまった結果、
ピアニスト自体にも夢を追えなくなった」

「昴……」

「僕の罪は……それだけでは済まないのです」





昴が康江に全てを語っている頃、悠菜は『STW』の広報部の初会議に参加していた。

女性誌に掲載する広告を、どう展開するか、活発な意見が飛び交っている。

悠菜は、広報部員たちと距離を埋めていこうと、必死に耳を傾けた。





『Flow』
時は誰にも、流れ続ける……
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