45 Wave 【波動】

45 Wave 【波動】



待ち合わせをした喫茶店で、昴はブレンドを注文した。

悠菜の前には、すでにアイスミルクティーが置かれている。


「ごめんなさい、遅くなりました」

「いえ、私が早く着きましたから。気にしないでください」


昴と悠菜は、残る思いを告げた、送別会以来の再会だった。

悠菜は、すぐに綾音が言っていた昴の左腕を見るが、包帯は取れていて、

シャツの中にある傷まで、確認することが出来ない。

それでも、大事にはならなかったのだと、少しだけほっとする。


「結局、父の会社に入ることになりました。
世話にはならないと、あれだけ大きなことを言っておいて、情けない限りですが」


悠菜は、昴に対し、その一言を切り出した。


「そんなことはありません。笠間から名刺を受け取りました」


昴は、下向き加減の悠菜の顔を見た後、すぐに顔をそらす。

見つめてしまうと、心の奥まで透かされそうで、辛くなった。

悠菜は、昴となかなか正面で顔をあわせられないことを感じながら、問いかける。


「腕の傷、どうですか?」


昴は、悠菜が腕の傷のことを知っていたことに驚き、思わず顔を上げた。

悠菜は、綾音が連絡をよこし、昴の生活が荒れていることを悲しんでいたと話す。


「あぁ……そうですか」


昴の右手は、自然と左手をかばうように添えられた。

部屋の床に散乱するガラスとワイン、そして傷を負った昴を見て、

確かに、綾音は取り乱していたことを思い出す。


「綾音さんを悲しませないであげてください。
綾音さん、自分がピアニストの道を歩まないことに、申し訳なさを感じているんです。
畑野さんが辛い顔をしていると、きっと、自分に責任があると、
考えてしまうでしょうから」


悠菜のその言葉に、昴は苦笑いを浮かべることしか出来なかった。

なぜ現実を忘れようと酒を飲み、こうなってしまったのか、

本当の理由は別のところにあるのだが、それを語ることが出来ない。

昴は、この事故以来、お酒を飲むことは控えていると、報告する。


「そうですか……よかったです」


目の前で笑う悠菜の顔は、仕事をともにしていた頃と同じなのに、

言葉はどこか遠慮がちで、互いの本音はどこにも見えてこない。

昴の前にブレンドが届き、ウエイトレスはすぐに去っていく。


「実は、これをお見せしたくて」


悠菜が取り出したのは、CMについての企画案だった。

『ブランカ』の実際の店舗を使い、その前にピアノを置き、演奏者が座る。

曲はリストの『愛の夢』で決定し、演奏者は畑野綾音と書き込まれていた。


「綾音を……ですか」

「はい。私が大学側にお願いするつもりです。
顔を出すことが無理なのなら、音だけでも構いません」


撮影場所に選ばれていたのは、

あのクリスマスの日、昴と悠菜が並んで歩いた噴水の前だった。

企画書に載せられている写真に、昴の目が止まる。

忘れることの出来ない一日が、心の奥でじわりと浮かび上がった。

自分と同じように、悠菜の心にもあの日が存在していることがわかる。


「言葉に出来なかった思いを、形に残しておきたい。
それがこのCMコンセプトです。私にとって綾音さんが弾いてくれる『愛の夢』は、
まさしくそういう曲なので……」


悠菜は、公平性を保つので、『立原』には、

数名の学生をリストにあげてほしいと、お願いしてあることを付け足した。


「CMには数パターンがあります。そのうちの一つがピアノです」

「では、綾音が弾かない場合もありますか?」

「はい……綾音さんが、この企画を必要としてくれなければ、
選考に落ちるかもしれません。でも、私は、彼女が絶対に受かるという自信があります」

「どうしてそう……」

「綾音さんにとっても、きっと必要なものになるからです」


昴は、どう答えるのが正しいのか、即答が出来なかった。

正直、綾音と悠菜が親しくすることで、隠そうと決めた出来事が、

どこかから漏れ出してくるのではないかという思いもあった。

『ブランカ』が『STW』の一部である以上、

渡瀬の人間と、綾音が深く関わるようなことは避けておきたい。

悠菜は、昴が答えに詰まっていることを感じ、もう一押ししようと顔をあげる。


「これで……終わりにします」


昴は、悠菜が言った『終わり』の言葉に反応した。

悠菜は、この作品を最後に、綾音と距離を置くことを約束する。


「綾音さんも、これからは採用試験などで忙しくなるでしょうから、
自然と距離も離れていく気がします。ですから、どうか最後に、協力してください。
私にとって、初めての企画なので」


昴は悠菜の言葉に、強い決意を感じた。

互いに、同じ道を歩むことが出来ないのなら、

悠菜の再出発に、出来る限りの応援をすべきだと考える。

これ以上、説明のつけられない『拒絶』をすることは、さらに悠菜を苦しめる気がして、

昴は、綾音が納得するのであれば構わないと、ブレンドに口をつけた。

悠菜はありがとうございますと頭を下げ、企画書を横に置く。


昴は、正直、嫌がっていた『STW』に入ることになり、

もっと思い悩んでいる悠菜を想像していただけに、

これだけ前向きに仕事に取り組む姿は、予想外だった。

気持ちを切り替えて前へ進もうとする姿勢は、むしろうらやましくもなる。


「実は私、綾音さんと約束をしたんですよ。こうして一度畑野さんに会うこと」

「綾音とですか」

「はい……。色々と畑野さんが大変そうだと、綾音さんがSOSをしてきたので。
綾音さんから聞いていた畑野さんの姿も、想像が出来ませんでしたし。
でも、お会いして安心しました。畑野さんはやはり畑野さんです」


悠菜は、自分も前向きに気持ちを変えたので、

昴も今までどおり、仕事を頑張って欲しいとそう言い切った。

昴は、『はい』と返事をすると、口元に笑みを浮かべる。




『あなたが……好きです』




互いにこの気持ちを言葉にはしないまま、久しぶりの再会は終了した。





駅前のスーパーに立ち寄り、悠菜は夕食の材料と、

洗剤を買いアパートへの道を歩き出した。

今回の企画を、自分と昴と綾音のためだと心に決め、向かい合っている間中、

意識して姿勢を整えた。過去はすでに割り切り、前へ進んでいると見せるために、

精一杯の表情も作ったつもりだった。


「重いなぁ……」


昴の顔を見るのは辛いと思っていたのに、いざ顔を見ると愛しさだけが前へ出て行き、

それを押し込むのに必死だった。

優しい笑みを見た瞬間、もしかしたらもう一度時間が戻るのではないかと期待し、

それを自ら打ち消した。

昴が一番反応し、結果、OKの返事をもらえたのは、『最後にする』という一言で、

悠菜は、どうしようもない壁を感じながら、さらに前へ進む。


「ガンバレ……私」


悠菜はそうつぶやきながら、街灯の下を歩き続けた。





昴との再会から5日後、悠菜は綾音を呼び出した。

『立原』側には、すでにCMの話を持って行くことが決まっていて、

綾音も、今朝教授からその話を聞いたと返事をする。


「チャリティーコンサートの後で、選考会があるのは聞きました」

「そうなの……綾音さん、出てくれるでしょ?」

「私は……」


綾音は、自分はあまり目立つことはしたくないと言い、迷うような顔をした。

悠菜は、予想していた綾音の戸惑いに、

この企画には大きな意味があるのだと説明をする。


「意味? これに出る意味ですか?」

「そう。綾音さんには、畑野さんのためにこのCMに出て欲しいと思って」

「兄のため?」


悠菜は、綾音をピアニストにしようと頑張ってきた昴への恩返しとして、

それを『形』に残して欲しいと訴えた。

この仕事が決まれば、綾音の奏でる音が『形』として残るのだと付け加える。


「綾音さんがピアニストではなく別の道を歩くことは、
畑野さんもきちんと納得してくれたことだから、
今更どうのこうのということはないけれど、
でも、あなたをピアニストにしたかったという畑野さんの思いが、
このCMで『形』になると思うの」


悠菜は、企画書をめくりながら、曲名が『愛の夢』と記されているページを開ける。


「『愛の夢』。私にとっても、これは大きな意味があるの。
色々と予想外のことが重なったとはいえ、今、私は『STW』の広報に配属になった。
これから、自分なりに仕事をしていくつもりではあるけれど、
でも……基本は忘れたくなくて」

「基本?」

「そう……私の中にある色々な思いも、このCMが形になることで、
まとまってくれる気がして……」

「兄のことですか?」


綾音は、昴への思いを、このCMに込めるつもりなのかと問いかけた。

悠菜は、肯定も否定もせずに、『区切り』になると、そう説明する。


「悠菜さん……」

「選出するのは私ではないから、結果はどうでるかわからないけれど、
でも、綾音さんに挑戦して欲しくて。
当日は、社長も聴きに来たいと言っているらしいし……」

「社長さん?」

「うん……今まで『ブランカ』としてはCMを作ったことがなかったから。
だから……」

「社長さんって、悠菜さんのお父さんですよね」


悠菜は、遠慮がちに頷き、綾音は何人の学生が参加するのかと問いかける。


「正式にはわからないけれど、おそらく4名くらいかな」

「4名……わかりました」


綾音は、悠菜が説明した意味を納得できたのか、

急に、演奏会に参加し、自分が勝ち取ると気持ちを変化させた。





悠菜の説得が通じ、綾音は無事、選考会に参加することになった。

もちろん、100%選出されるとは言えないが、

ここまで出来ただけでも一つ壁を越えた気がした。

悠菜は、食器を片付け台所のライトを消す。

いつも康江に手紙を書くための便箋と封筒を取り出し、ペンを走らせた。


『先生、お元気ですか』の文章を記した後、

昴との日々を、このCMとして形に残すことで、

けじめをつけようと思うと、書き始める。

そして、やけどを負わせた母と、残された綾音のために、

時間を費やしてきた昴のためにも、成功させたいと付け加えた。



『畑野さんのためにも、忘れなければならない人だと思うので』



手紙は、数日後に『小麦園』にいる康江の元に届けられた。

全てを語ることなく身を引こうとする昴と、

何も知らないまま、思いを封じ込めようとする悠菜の気持ちが重なり、

康江は手紙を読みながら、自然と涙が出た。





「さっそく、悠菜さんは広報部で存在感を示されているようです」

「そうか」

「はい。田尾から悠菜さんが企画したものが、採用されたと聞きました。
『立原音楽大学』の協力も確認できたようですし、
2週間後に開かれるチャリティーコンサートの後で、選考会を行うそうです」


江口は、勇に対し、悠菜が仕事に前向きになったことを告げた。

勇は嬉しそうに笑みを浮かべる。

目の前には、広報部長の田尾が置いていった、企画書があり、

勇はそれを手に取ると、1枚ずつめくり始める。


「このまま、頑張ってくれるといいけれど……」


勇は、悠菜の母、苗子のことを思い出しながら、

企画書を最後まで読み進めた。





そして、『立原音楽大学』のチャリティーコンサートが、今年も無事に行われ、

学生たちは大きな拍手を送られた。

悠菜は会場の隅で演奏を聞き、ちょうど一年前のことを思い出す。

生で、耳に音を捕らえる事の素晴らしさを感じながら、

感情の高ぶりに自然と涙が浮かんだ。

あれだけの興奮と感動を、この場所にいるだけで呼び起こすことが出来る。


「ねぇ、住友さん、住友さん」

「何?」

「今、会場の外に車が止まったの」

「車? 田尾部長?」

「違うの! 奥様が来たの」


今日がCM出演者の選考会だと知った晴恵が、自ら会場に出向いてきたと、

まどかは興奮気味にそう語った。

悠菜は、晴恵が姿を見せるとは思っていなかっただけに緊張する。


「私たちは、やることをやればいいわよ。
どこで見られても、恥ずかしい企画じゃないと思うし」

「そうよね、そうよ、うん」


まどかは悠菜の言葉に納得し、会場の外へ向かうと、

先輩からの指示を聞き、選考会の準備をし始めた。



先に会場入りしていた江口は、車から降りた晴恵を出迎えた。

晴恵は軽く挨拶をした後、『立原』の事務長を務める男の案内で、会場へ進む。


「本日はご協力していただき、ありがとうございました。
主人が来られずに、申し訳ありません」

「いえ、渡瀬社長がどれほどお忙しい方なのかは、承知しておりますので。
奥様にいらしていただいただけでも……」


江口は、晴恵から数歩下がった場所に立ち、遅れて会場の中に入った。

広報部のメンバーが頭を下げ、隅にいた悠菜も頭を下げる。

舞台上では選考会に出場する数名の学生が、担当者の話を聞いていた。


「あれが学生なの?」

「はい、今回はピアノとバイオリンとフルートでというお話でしたので、
学生に趣旨を話しまして、ぜひというものを集めました。
ただ、あくまでも学生であり、芸能人ではないので、
音のみの参加ということで、広報の方にはお願いしてあります」

「そうですか。詳しいことは担当者に話してくだされば結構です。
私は、音楽を聴くことが好きなので、
今日はみなさんの素敵な演奏を楽しませていただこうと思いますので」

「はい……」


晴恵が会場の席に座る姿を、綾音は舞台上から捕らえた。

大勢の人が動き、大学の事務長まで姿を見せたので、社長が来たのかと思ったが、

そうではないことがわかる。

綾音は、女性の斜め後ろに座った男性に目を向け、その顔を何度も確認した。


「それでは、お時間もありませんので、一人ずつお名前を発表してください」


学生たちは、1列に横に並び、指示をされた方から、順番に名前を言った。

そして、綾音の番になる。


「立原音楽大学 ピアノ科4年、畑野綾音です」


悠菜は、その姿を会場の隅で見続け、晴恵は会場の中心で聞き取った。

綾音は1歩下がると、別の学生に前を譲る。

学生たちは、挨拶を済ませ、順番に演奏を始めた。



『それでは、畑野綾音さん、お願いします』



「はい……」


綾音の演奏の順番は、3番目だった。

前の二人も、同じ4年生で、課題曲である『愛の夢』を、

大きくそしてゆったりと奏でた。

鍵盤に手を乗せた綾音は、呼吸を整え、そしてその指を動かし始める。



『愛の夢』



綾音にとっては、母が愛した曲であり、自分と悠菜を結び付けてくれた曲でもある。

そして、悠菜自身がこの曲に、昴への思いを乗せていることを、先日知ることになった。

全ての人へ思いが届くように、綾音は気持ちを込めて弾いていく。

悠菜は、江口や晴恵のいる場所から離れた会場の隅で、綾音の音に耳を傾けながら、

昴と過ごした日々を、思い返していた。

結局、なぜ、自分の気持ちを受け入れてもらえなかったのか、

納得する理由を聞くことは出来なかったが、

その深い理由に、生活を乱した昴のことを思うと、

これ以上、畑野兄妹に自分が関わるべきではないのだと、そう心に刻み込む。

すぐに忘れることは出来ないだろうが、この仕事が一区切りになるかもしれないと、

悠菜は浮かぶ涙をそっとぬぐった。


演奏をする綾音には、悠菜からこの以来を受けてから、心に決めていることがあった。

本来なら、CMのために曲を弾くことなど興味もなかったが、

この選考会だけは、大きなコンクールよりも、意味があるとそう思った。

なんとしても自分が権利を得なければならず、自然と気持ちが入っていく。

『クリアコンクール』で銅賞を獲った綾音の演奏が終了すると、

会場内の拍手は、より一層大きく膨らんだ。





「寺前、頼んだ書類は出来上がっているか?」

「はい、すぐにメールで送りました」

「ありがとう……」


綾音と悠菜が『立原音楽大学』で選考会に臨んでいる頃、昴は『salon』の営業部にいた。

橋場の代理として指示を出し、仕事の区切りがついたため、席を立つ。

行きつけのコーヒーショップでアイスコーヒーを買うと、そのまま奥の席へ座った。

街を歩く人たちの流れを目で追いながら、ポケットに手を入れる。

取り出して見たのは、今日のために綾音が用意してくれた、

『チャリティーコンサート』の招待券だった。





「それでは、3名の方、よろしくお願いいたします」


広報部長である田尾の挨拶が終了し、

ピアノ、バイオリン、フルートの演奏者が発表される。

綾音はその舞台に立ち、ピアノの演奏者として、拍手を送る『STW』の面々に、

深々と頭を下げた。





『Flow』
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いつも訪問ありがとう。パワーの源、1日1回の『ポチ』……してくださると嬉しいな。

コメント

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夏休み~♪

こんばんは^^

いつ晴恵さんが出てくるのかな、と思いながらこの数話を読んでいましたが、ついに登場!
「きたか!」 とワクワク

修羅場となるのか、最悪の事態を回避するのか、
次回が楽しみ~^^
(と、こんなことを思うのは私くらいでしょうね 笑)

作者さんの思惑に振り回される快感を味わいつつ、次回を待ってます!

やっぱり好きだわ、このお話♪

夏休みも後半、がんばりましょう!
(我が家はこれからが、夏休み本番です・・はぁ・・・)

気に入ってもらって、嬉しいな

なでしこちゃん、こんばんは

>修羅場となるのか、最悪の事態を回避するのか、
 次回が楽しみ~^^

楽しみにしてもらって、嬉しいよ。
修羅場と回避、どっちがいい?(笑)
なでしこちゃんだったらどう書くのか、聞いてみたい気もするわ。

夏休みも半分くらい消化したけれど、なでしこ家はこれからなのね。
そうか、そうか。
辛いことの後には、楽しいことがあると信じ、お互いに乗り越えようね!

それにしても暑いので、体調管理も気をつけてね。

ご無沙汰です♪

園長先生の昴への助言は正解だと思います
悠菜なら全てを許してしまいそうな気がしますよね

悠菜は偉い!前向きだよね
自然と応援をしたくなる

この後きっと二人の前に晴恵が出てくると思うけど
その時、昴がどんな行動に出てくるか・・・
そして、悠菜は耐えられるのか・・・

この先の展開が楽しみです^m^

いえいえ、いつもありがとう

yokanさん、こんばんは
そちらも暑いでしょうね。我が家の方も、溶けそうなくらい暑いです。

>悠菜は偉い!前向きだよね
 自然と応援をしたくなる

ありがとうございます。
ぜひぜひ、応援してやってください。
これからが、話の核部分ですので、よろしくお願いします。