58 Fluctuation 【ゆらぎ】

58 Fluctuation 【ゆらぎ】



「すみませんでした……」

「いや……謝る必要などない。お前の思いは思いで、ありがたい」


江口は、自分勝手に行動し、昴を呼びつけたことを謝った。

勇は、会社に戻ってこない江口が、昴に連絡をするだろうと思い、

立ち寄りそうな店に、あらかじめ話しをしておいたと言い返す。


「南雲に運転をさせて、苗子の墓参りをしてきた」

「今日ですか」

「あぁ……。向こうの世界に行ってから、あいつに怒られたくないからな」


勇はそういうと、昴の残したカップを見る。

悠菜が自分のところに最初からいたとしたらと、ふと考え、すぐに首を振る。


「晴恵にも連絡を入れた。
悠菜の相手がどういう男で、会社からも私からも離れようとしていること、
お前が望むのなら、離婚でもなんでも応じると言うこと、今日はこれから話し合いだ」


勇は、昴が晴恵の相手だったことも知り、

決断を晴恵にさせるつもりだと言い切った。


「畑野昴……。私を目の前にして、彼も相当な思いがあっただろうに。
それでも最後まで冷静さを失わずに、悠菜をかばい続けた。
あの思いには……誰も勝てるものはないだろう」

「社長」

「いつも冷静なお前が、完全におされていた。珍しいこともあるものだと、
聞きながら思っていたよ」


興奮気味に昴に対応した江口も、実はそれを強く感じ取っていた。

自分たちが思う場所よりも深い位置で、昴と悠菜が結びついているのだと、

あらためて思い知る。


「娘も妻も、あの男に気持ちを持っていかれたままでは、困る。
私が向かい合わないとならないのは、悠菜でも彼でもない。それがわかっただけだ」


勇は立ち上がると、店を出ようと江口に声をかける。

江口は改めて申し訳ありませんと頭を下げた。


「社長……『salon』に……」

「『salon』に、情報を流したのはお前なのだろう」


悠菜が勇の娘であることを情報をして流したのは自分だと、江口は始めて謝罪した。

勇は、自分が過去の思いをひきずったために、みんなに迷惑をかけたと頭を下げる。


「会社に戻ろう、江口」

「……はい」


勇は肩を落とす江口の背中を軽く叩き、

悠菜の『退職届』を受理するようにとそう言った。





昴は、悠菜のアパートに向かい、江口と勇と3人で話したことを告げた。

悠菜は、自分に対しても強く出てきた江口が、昴を脅したのではないかと心配する。


「何もないよ。ただ、こっちの気持ちを確かめられただけだ」

「気持ちを確かめた? 何か条件を出してきたとか?」

「いや……」

「そんなはずないでしょ。あの人はそんなに弱くないもの。
畑野さんに対して、色々と……」

「あぁ、色々とは言われたよ。君はどうしようもない男だと」


昴がそう答えると、悠菜はやはりそうだったのかと辛そうな顔をする。

昴がどんな気持ちで話を聞いていたのかと、悠菜は唇を噛みしめた。


「そんなことで怒ったり取り乱したりするくらいなら、最初から会ったりしない」

「畑野さん……」

「きついことを言われても当然だ。
逆を言えば、中途半端な思いなら、引いてくれということだろう」


昴は、勇が少し遅れて登場し、過去の自分の行動と照らし合わせ、

悠菜と生きていくことを認めてくれたとそう話した。

悠菜は、それは本当なのかと問い返す。


「あぁ……全てをわかったうえで、許してくれた。
君のお父さんは、立派な人だ」


悠菜は、どんなことがあっても、気持ちは揺るがないと思っていたが、

さすがに勇が許してくれたことを知り、

固まっていたものが落ちていくような気分になり、自然と目には涙がたまっていく。


「だから乾杯しようと思って、買ってきた」


昴がテーブルに置いたのは、悠菜がくれたあのワインだった。

悠菜はその瓶を手に取り、懐かしそうに見たあとテーブルに戻す。


「『感謝』のワイン……よね、これ」

「あぁ……」


悠菜は、勇に初めて会った日のことを思い返しながら、

ワイングラスを2つ取り出した。


「でも君は少しにしないとね、また酔って転んだら大変だ」


昴はそういうと軽く口元をゆるめる。


「大丈夫です。だって、酔ってしまったら、
畑野さんがきちんと介抱してくれるのでしょ?」


悠菜はそう言いながら昴の顔を覗き込み、グラスを2つテーブルに置いた。





その日の夜、渡瀬家のソファーには、向かい合うように勇と晴恵が座った。

晴恵は、CM撮影の日、兄のことを話した綾音の顔を思い出す。

それと同時に、会う時間を増やして欲しいと願い、

お金を用意した自分に向けた、昴の冷たい目を思い返した。


「君が、私から離れていったのは、単なる君のわがままだとそう思っていた。
娘へ向ける愛情と、君への思いは別だと、私は思っていたし……」


勇は、晴恵と出会い、幸せだと思っていた中で、

幸せにしてやれなかった苗子のことを考えたのだと、そう言った。

もし、どこかで暮らしているのなら、謝罪だけでもしようと、決めて調べを進めた。


「悠菜という娘がいたことを知り、せめて何かをしてやりたいと、
そう考えた。でも……彼女の望むことは、そんなことではなかったんだ」


悠菜は全てを知った上で、昴を選び、生きていくことを決めたのだと語った。

晴恵は、『FLOW』にいたことも、全てかと問い返す。


「君が知っていることも、全てだよ」


晴恵は、自分と昴がどういう関係にあったのかも知りながら、

悠菜が受け入れたと知り、言葉が出なかった。

渡瀬が持つ財産を狙うだろうと思っていた血のつながらない娘は、

たった一人の男のために、全てを捨ててしまった。


「彼が『FLOW』に身を置いたのは、妹さんの学費のためだそうだ」


晴恵の脳裏に、選考会で見事なピアノ演奏をした綾音の姿を思い出す。

晴恵が愚痴を言おうとすると、プライベートな感情は挟みたくないと、

個人的な話を拒んだ昴の声が蘇った。


勇は『離婚届』をテーブルに置く。


「私の至らなさで、君を傷つけたのだから、弁明は出来ないが……
私は、これからの人生を、君とやり直して行きたいとそう思っている。
それでも、もう無理だと言うのなら、君の望む金額を提示すればいい。
この用紙も預けるから、しっかり考えてくれ。ここでいきなり結論を出せと言うのも、
おかしな話だ」


勇はそう言うと部屋を出て行き、晴恵はひとり残された。

離婚届には、すでに勇の名前が書かれている。

仕事の中で、勇と出会い、『結婚』をすることになった時には、幸せの絶頂だった。

社会的な地位もある男性の妻となったことで、叶わない夢などないような、

そんな気持ちだった。

しかし、自分に好意を持ってくれたと信じていた勇が、

その裏で過去の女性の姿を追い求めていることに気付き、

その女性の忘れ形見である娘の存在に、安定するはずだった心は、大きく乱された。


それと同時に、お金があることだけでは、たどり着けない『幸せ』があることに、

気付かされた。


仕事と自分と過去の女性との間で、

勇の思いが分割されているようにしか思えなくなった時、『FLOW』の存在を知った。

晴恵は、勇の気持ちを自分だけに向けたくて、あえて足を踏み入れた。

満たされない思いを、別の感情で満たす方法を選び、決して絡まることのない糸に、

自分の救われない気持ちを、結びつけようとした結果、

以前、自分が思い知った『お金』の無意味さを、もう一度味わうことになってしまった。



『畑野昴』

『畑野綾音』



自分を抱き、時を金に換えた男は、心を捨て妹のために戦っていた。

自分の全てをかけて戦っている男に、甘い言葉をかけても、心が動くはずもなく、

晴恵は、その後、パートナーを変え刺激を求めたものの数回で途切れてしまい、

結局『FLOW』から身を引いた。

一時だけの幸せを得ても、その反動に空しさが膨らむばかりで、

何も満たされることがなかった。



自分の前では、決して笑うことがなかった男。

自分の寂しさを、わかろうとしてくれなかった男。



晴恵は勇の残した『離婚届』を半分に折ると、そのまま部屋を出た。





悠菜は、次の日、田尾にあらためて『退職届』を提出した。

田尾も、すでに江口から聞いていたためそれを受け取る。


「後悔はないの?」

「ありません」


悠菜はそう言うと、お騒がせばかりで申し訳ないですと頭を下げる。

そして、残りの日々はしっかり仕事をしますと、笑顔を見せた。





それぞれが仕事先に向かった広報部には、事務処理のために悠菜とまどかが残っていた。

まどかは出来上がった資料を束ね始める。

悠菜が束ねた資料を封筒に入れていると、廊下の窓から、南雲の姿が見えた。

南雲は、秘書室から広報部へ移り、主に他部署との連絡役を引き受けている。

悠菜が、軽く礼をすると、南雲はこちらへ来るようにと手招きした。

まどかは下を向いたまま、資料を束ねている。


「沖本さん、ちょっとごめん」

「ん?」


まどかは悠菜が外へ出ていくのを見たが、お手洗いにでも行くのだろうと、

あまり気にせずに、仕事を続ける。

悠菜は、先に動いた南雲を追いかけるように歩き、非常口のそばまで来た。


「あの……何か」

「これを……」


南雲から渡されたのは1枚のメモで、悠菜は中身を読むと、わかりましたと頷いた。





全ての書類に名前を書いた後、昴は一度大きく背伸びをした。

営業部の時計を見ると、16時をすでに回っている。

ポケットから携帯を取り出すと、悠菜のアドレスを呼び出した。


『クリアコンクール』の受賞者が、持ち回りで開催するラストコンサートは、

あと10日後に迫っていた。裕も前日に東京へ来るのだと、綾音は嬉しそうに語り、

『小麦園』から康江も、顔を出してくれることが決まっている。

悠菜とも、その日に会える約束にはなっているが、

会いたくても会えなかった日々があったせいなのか、

時間が空くと、予定もなかったのに、

『これから会えないか』とメールを打とうとする自分がおかしくなる。



『ごめんなさい。今日は先客なの』



すぐに届いた悠菜からの返信メールは、申し訳ないという絵文字が、複数並んでいた。

今までなら、どこか固い内容しかなかったメールに、こうした遊び心が入り出すことに、

どこか安心感を覚える。



『いいよ、ごめん』



昴はそう返信すると、もう一つ仕事をこなしてから帰ろうと、

PC画面を切り替えた。





街が夜の闇に包まれた午後8時。

悠菜は、指定された店の前に立ち、一度大きく深呼吸をした。

会わないままでいられるのなら、会いたくなかったというのが本音だけれど、

それは相手も同じことだろうとそう思った。

だとすると、連絡を取ってくる方が数倍勇気のいることで、

悠菜も覚悟を決めるべきだと、店の扉を開ける。


「住友悠菜です」


店員は軽く頷くと、奥の部屋へ案内した。

それぞれが廊下と襖で仕切られ、完全なプライベートを守れる作りになっている。

別の部屋から出て来たのは、どこかの企業に勤める外国人で、

流暢な日本語を扱いながら、すれ違う。


「お連れ様がいらっしゃいました」

「通してください」


初めてしっかりと聞く相手の声に、悠菜の緊張はさらに高まった。

襖を開き、顔を上げる。

そこに座っていたのは、晴恵だった。


「失礼します」

「どうぞ」


悠菜は晴恵の前にある座布団に座り、荷物を横に置いた。

あらためて前を向くと、向けられた視線に思わず下を向く。


「突然呼び出すようなことになってしまって、ごめんなさい。
でも、どうしても一度お会いしたくて」

「はい……」


晴恵と目を合わせることは、悠菜にとって、精神的にきつかったが、

下を向くことは自分の選ぶ道を、どこかで迷っているように思え、

勢いをつけ、前を向いた。


「『STW』に退職願を出したそうね」

「はい」

「ということは、渡瀬からも離れることを選ぶのだと、そう思っていいのかしら」

「そのつもりです」

「あなたが娘であることを喜んで、自分のそばにと思っている渡瀬に対して、
思いは何もないの?」


晴恵は、渡瀬を捜していたのは、

父と娘として向かい合うためではなかったのかと、問いかけた。

悠菜はそれは違うのだと首を振る。


「私の母は、亡くなるまで一度も父親の話をしたことがありませんでした。
ある程度の年齢になってからは、おそらく相手には家庭があるのではないかとか、
それなりに考えもしました。母が生きていれば、私は一生知ることはなかったと思います。
でも、母が病気で亡くなり、自分の過去を知る人がいないことに寂しさを感じました。
本当に、私は自分の出発点を知りたかっただけです。
結果的に、渡瀬さんが私の父親だとわかりましたが、正直、社会的な地位も立場も、
どうでもよかったんです」

「どうでもよかった?」

「はい……一緒に生活をするつもりは、全くありませんでしたから」


悠菜は、本当に存在がわかればそれで満足だったと、言いきった。

調査会社にお願いし、結果を知らせてくれた封筒を目の前に出す。


「一番最初の思いに、戻るだけです」


悠菜は、『STW』を辞めることになったら、勇とも会うつもりはないと宣言する。

晴恵は、自分さえ勇の元を離れたら、渡瀬の家に入れるのではないかと言い返した。


「それは関係がありません。私と奥様の位置は全く違うところにあると思います。
正直、私がその気にさえなれば、渡瀬の家に入ることも可能なのでしょうが、
『STW』に入ってみて、あらためてそれは無理だと思いましたので」

「無理?」

「はい。私が私らしく生きられないからです。渡瀬の家に世話になったら、
渡瀬悠菜として生きなければならなくなります。私は本当にそれを望んでいないのです。
私は……」


悠菜は一度言葉を止めると、ここで言うべきなのかどうかを考えた。

しかし、これから縁を持たないと決めた以上、伝えておかなければならないことがあると、

気持ちを前に向ける。


「私は、自分の愛した人と、生きていく道を選びたいだけです」


悠菜はそう話すと、勇とはまだ、戸籍上のつながりがないことを語り、

それもこのままにするつもりだとそう言った。


「もし、口だけの話が信じられないのでしたら、書類でも何でも書きます。
それなりの方を呼んでください」


悠菜は、勇との縁を切ると言う自分の思いを認めてもらうためなら、

どんなことでもすると、そう宣言した。

晴恵は、迷いのない悠菜の言葉に、自分も思いを素直に語ろうと、そう考えた。


「彼が、何をしていた人なのか、あなたは全て知った上で、
それでも愛していくと、そう言うの?」


彼とはもちろん昴だということは、悠菜にもわかっていた。

晴恵は、『FLOW』という組織のことも、彼が何をしていたのかも知って、

それでも許せるのかと問い返す。


「全てを知るまで、時間がかかりました。納得の出来ない言い訳と状況に、
心がズタズタになりそうなくらい、私も畑野さんも悩みました。
それでも、嫌いになることが出来ませんでした。
その重ねてきた時間も、互いのことを思っていたからだということがわかったので。
だから、どう進んでも悩むことになるのなら、
今持っている感情を大切にしようと考えたのです。
たった数ヶ月のことに……私は負けない自信があります」


数ヶ月のこととは、昴と晴恵が送った時間を意味していた。

晴恵は、本当に悠菜が全てを知っているのだと思いながら、その顔を見る。


「正直、今この場に座っていることも、苦しいところはあります」


悠菜は、あらためて晴恵のことを見つめながらそう言った。

晴恵は、あえて悠菜と目を合わせ続ける。


「でも、それが、彼の苦しみを、一緒に背負うことだと思っているので。
それが……人を愛することだと思うので、負けられません」


苦しくて、辛いときこそ、一緒にいたいという悠菜の言葉に、

晴恵は、何も言い返すことが出来なくなった。

勇が悠菜を探しだしたとき、自分から気持ちが離れていく気がして辛かったと、

どうして訴えようとしなかったのか、今更ながらに考える。

プライドも投げ捨て、もっと自分を見て欲しいと伝えずに、

別の場所へ逃げてしまったことを、後悔する。


「晴恵さん」


悠菜は、奥様とは呼ばずに、あえて名前を呼んだ。


「一つだけお願いがあります。ここへ来た勇気を認めて、聞いてください。
渡瀬さんを、よろしくお願いします。『STW』で仕事をしてみて、
あらためてお忙しい人なのだと、よくわかりました。
責任も重くて、気持ちの休まるところがないと、倒れてしまう気がして……」


悠菜は、勇ともう一度やり直して欲しいという思いを込めて、

そう話をした。晴恵は、答えを出すことなく、黙ったままになる。

悠菜は出されたお茶を飲み干し、話は終わりだと、座布団から体をずらす。


「悠菜さん、あなたの気持ちは、わかりました」


悠菜はそれならばという顔で、晴恵を見た。

しかし、晴恵は明るい表情にはならずにいる。


「でも、私には、私の思いがあります。それは認めてください」


悠菜は、晴恵の宣言を聞いた後、、お先に失礼しますと店を先に出た。

なるべく、刺激をしないようにと思いながら、言葉を選んだつもりだった。

それでもどこかで負けてはいけないという思いが先行し、

意地を押し出している部分もあったと反省する。



『私には、私の思いがありますので……』



悠菜は、晴恵がどういう結論を出すのかと考えながら、

駅に向かって歩き続けた。





『Flow』
時は誰にも、流れ続ける……
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