第36話

第36話




『結婚したい人』はいます。

その人はずっと俺の心の中に住み続け、今も一番深く、大切な場所に座っています。

しかし……



「結婚すればさ、子供だって産まれるでしょう。
産まれてから入ろうとしても、年齢が上がればそれだけあれこれかかるし……」


いきなり飛び込んできた保険のおばさんに、俺は押されっぱなしのまま、

ロビーのソファーに座っている。


「バブルがはじけてしまって、一生の保障なんてどこにもなくなった。
これだけ大きな企業に入っているからといって、全てOKってことはないんですよ。
そう、今だからこそ、こういった備えが出来るかどうかで
男の差が出ると思うんだけどね」


オプションがどうのこうの、契約金と返戻金の話し、

配当があること、掛け捨てもあること、話は勝手に進んでいった。


「どうした……さっきまでの勢いはないじゃないの。おばさんの理論に屈するのかい?」


理論に屈するとか、屈しないとか、勝ったとか負けたとかではなく、

どうして当たり前のことが、当たり前ではないのか、そこで気持ちが萎えてしまった。


「あの……」

「はい」

「今、色々と話をされたのはわかるのですが、たとえばなんですが」

「はい」


俺は、受取人は自由に設定できるのかということ、そしてその場合、

その人がどこにいるのかわからなくても構わないのかと付け加えた。

保険のおばさんは、話の途中から少し顔をしかめ、

何を言っているのかわからないという表情を見せる。


「どこにいるのかわからないっていうのは、問題だね。
受取人に書類を出して、その返答がないというのでは、お金も渡せないし。
適当な名前を書かれて、後から揉めることになってもまずいでしょ。
保険は、その人の命と引き換えになることだってあるわけだから。
でも、どこにいるのかわからないような人に、渡したいの? あなたは」


どこにいるのかわからない人に渡したいのではなくて、

渡したい人が、今どこにいるのかがわからないのだ。

俺は、自然とそうつぶやいた。


「あらまぁ、ケンカでも、したのかい?」

「ケンカ? いや……そうではないと思います」

「なら、どうして」

「頼りがいがないと、思われたのかもしれません」


美咲の気持ちは、美咲にしかわからない。

振り払っても、また降りかかってくる出来事の重さに、

我慢だらけの気持ちが、ついていかなくなってしまったのだろうか。


「支えてやっていると思っていたのに、何もわかってやっていなかったみたいです。
俺は全然未熟者で……」


なぜだろう。この能美さんというおばちゃんの見た目がとってもふくよかで、

なんだか色々と苦労をしてそうな手のしわがあって、

それでいて、営業のプロだから話を聞くのがうまいからなのか、

俺は美咲のことを、守ってやれなかったのだと、グダグダ話し始め、

気付くと、別れたことや、またやり直したことまで語ってしまう。

我に帰ると、目の前に並ぶパンフレットはさらにあれこれ増えていた。


「遠距離っていうのは、難しいものだね」

「……すみません、能美さんには何も関係がないことでした。
あの、とにかく俺はまだ……」

「関係のない話の中にもね、私たちからすると、大事な言葉が入っていたりするんだよ。
そうだね、大倉さんは地元から上京しているようだから、
受取人はお父さんにしたらどうだろう」

「は?」


真面目にこちらの話を聞いてくれているのかと思えば、

お構いなしに、またグイグイ押してくる。


「それとも、まだ24でしょう。どうしていなくなったのか、
考えても答えが出ないような状況なら、いっそ、綺麗に忘れてしまったら?」


綺麗に忘れる?

そんなこと、思ったことさえない。


「時々いるんだよ。同棲カップルが互いの誓いのつもりで、
保険の受け取りをお互いにしておくんだけど、ケンカして別れることになって、
結局親に戻すってパターン。だから、正式に籍を入れていない間は、
受取人は親にしておくのが一番。親は変更にならないからね」


体のどこかに、印鑑を持っていなくてよかったとその時にそう思った。

この能美さんの押しだと、どこかで無意識に押しそうになる。


「では、今日はこの辺で……来週にでももう一度」

「いえ、もう結構ですから」


結局、パンフレットと『大倉さんの人生計画』をいう表を受け取ることになり、

重たい足取りのまま、デスクへ戻った。





その日の仕事を終え、ゴミ箱に捨てようとした人生設計書を広げてみる。

24歳で結婚し、その後すぐに子供が生まれた場合のシミュレーションがあり、

子供が大きくなるまでは、リスクも高いのだと初めて考える。

確かに、我が家は両親が揃っていたけれど、急に亡くなってしまったら、

俺はのんびり東京に来て、大学生活など送れなかっただろう。


中学の時、父親が急に離れてしまった美咲の苦労を思うと、

人が生きていくのは、大変なものだとあらためて考えてしまう。


「大学生ねぇ……」


子供が大学生以上になると、親の負担は減っていくため、掛け金を抑えることなど、

能美さんのメモには、あれこれがしっかり書き込まれていた。

それにしても、俺はこんな表をバッチリ作成されるほど長い時間、

自分のことを語っていたのだろうか。


「はぁ……」


見上げた照明の蛍光灯がチカチカとしはじめ、俺は財布を片手にスーパーへ向かう。

従業員入り口の扉が開き、髪の毛を一つに結んだ女性が、目の前に現れた。

ほんの一瞬、横顔を見ただけだけれど、どうしても顔を確かめたくなった。

自転車を慌ててUターンさせ、不審者と思われないように前へ回り、顔を見る。


当たり前だけれど、美咲ではなかった。


ちょっとした特徴が似ていたから、つい、気持ちだけが前へ出てしまったのかもしれない。

よくよく見ていたら、まったく似ていない。

自分の行動のおかしさに、力だけが抜けてしまった。





美咲のご両親には、時々警察から連絡が入っていた。

事件に巻き込まれた身元不明者の連絡が入り、

何度か確かめに行ったこともあるようだったが、それは全て美咲ではなかった。

何かヒントをという思いと、事件に巻き込まれていなくてよかったという思いとで、

いつも俺は複雑な気分だった。





「乾杯!」

「久しぶりだな、禎史、駿介」


9月の週末、新潟から憲弘が東京へ出てくることになり、

大学仲間が久しぶりに顔を揃えた。こうして会うのは卒業式以来かもしれない。


「『ボルテックス』は伸びてるよな、お前、いい企業を選んだよ」

「そうそう、本当にそうだよ」


禎史は、家電メーカーはこれから国内よりも国外への進出がカギになると分析し、

社会人になってから、英会話のレッスンをしていることを教えてくれた。

付き合っている女性もいるようだが、今は自分磨きに精一杯で、

なかなか大変だと笑っている。


「英会話か、確かに英語が出来ないとキツイな」

「そう、実践的な会話が出来ないとな」


禎史は、性格的に思い切りがいい。

こうと決めたらすぐに行動を開始する。

そんなところがうらやましくもあり、また頼もしくもあるのだが。


「だとすると、駿介が一番最初に結婚か?」


憲弘は、同じ公務員同士の彼女が出来たことを語ってくれたが、

互いに家から通勤しているため、あまり焦りがないのだと言った。

東京で一人暮らしをしている俺が、一番最初に結婚するだろうと、

二人で勝手に予想し始める。


「どうだよ、駿介。彼女とはまだ続いているんだろ」


どうなんだろうか。

俺はまだ思っていても、美咲はもう戻ってくる気持ちがないのかもしれない。

一人で生きていく決意を固めてしまったと思うと、どう返事をしていいのかすら、

わからなくなった。


「実はさ、あいつ地元から出て行ってしまったんだ」

「出て行った?」

「あぁ……親にも俺にも誰にも何も言わないで。黙って出て行ってしまった」


『ボルテックス』が『陵州』で事業展開をすることになってから、

地元の人たちが浮き足立ち、その影響を美咲自身が受け続けていたこと、

そして、過去の罪から付随した噂話に、とことん追い込まれてしまったこと、

俺は初めて禎史と憲弘に話していく。


「子供が?」

「あぁ……一番静かな生活をしていなければならないのに、
どこにいるのかすら、俺にはわからなくて」


せっかくの飲み会なのに、場の空気が一瞬で張り詰めてしまった。

申し訳ないくらいの状態に、禎史が風穴を開けてくれる。


「駿介。お前は悪くなんかないよ。精一杯のことはやっていたはずだ、
そりゃさ、色々と言われることあって大変だろうけれど、辛いなら辛いと、
口に出さない向こうだって悪いだろ」

「おい、禎史」


美咲のことを悪く言っていることになると、憲弘はそうフォローした。

禎史はそうじゃないのだと前置きをしながらも、話し続ける。


「下なんて向くな。お前はお前の人生を歩めばいいよ。
一人で育てたいと思うのなら、そうさせればいいんだ。こっちは探したのだし、
受け入れるつもりにもなっていたのだから」


禎史の意見が、全くわからないわけでもなかった。

やることをやって、あとは天に任せるしかない。

それも一理あるとそう思う。


「無理に感情を抑えようとするな。新しい恋をする気持ちになることも、
悪いことじゃないはずだ」


人には色々な意見がある。そして、色々な思いもある。

俺は禎史の意見に頷きながらも、そうは出来ない自分の気持ちも、わかりきっていた。





それからは、仕事で色々な場所に向かうたび、美咲の写真を持ち出し、

見たことがないかと尋ねることにした。

禎史の言うとおり、精一杯やっていると自分で納得するためには、

無駄だとしても動き続けるしかない。


「うちにはいませんね」

「そうですか」

「それに妊婦でしょ? お酒を飲むホステスにはなれませんよ」

「……そういうものですか」


妊婦だとしたらお酒を堂々と飲ますことは出来ない。

それを聞いて、水商売の線は消していく。

だとすると、母子だけで生活に困る人たちが集まる場所にでも顔を出していないかと、

外へ出たついでに、役所に問い合わせた。


「室井美咲さんという方は、いませんね」

「ありがとうございます」


ポケットに入れてあった携帯が鳴り出し、相手を確認する。

見たことのない番号なのでそのままにしていると、また5分後くらいに鳴り出した。

仕方がないので受話器を上げる。


「はい……」

『もしもし、『にこやか生命』の能美です。大倉さんですか?』


『にこやか生命』。

あれだけ断ったのにと、すぐに電話を切ろうとした手が止まる。

一瞬で、別の思いが俺の頭を支配した。


「能美さん、今、どちらですか?」


俺は、あることを考えて、能美さんに会うことにした。




第37話

小さな芽を出した駿介と美咲の『恋』、強い風に倒されず、花は咲くのか……
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