2 余計なことをする男 【2-2】

【2-2】

空になったグラスを、謙から見える位置に置く。

『1杯だけ』と約束をしたのだから、

これを飲みさえすれば、ここを出ても構わないはずだ。


「有働副支店長」

「何?」

「どういう女性であっても、奥様を選んだのはあなたです。
私が一人でいるからといって、過去が現在にはなりませんし、
これからもありえません。もちろん仕事はするつもりですし、
妙な感情を挟むことはしません。ですから、副支店長も個人的なお話や、
こういった時間に誘うことは、やめてください」


人のテリトリーに、土足で勝手にズカズカと入らないで欲しい。

あなたを愛した私は、もう過去のもので、ここにはいない。


「過去……か……」


そう、あの頃の私とあなたは過去以外のなにものでもない。

再会したからと言って、続きがあるはずもないのに。


「付き合っている男がいるのか……」

「関係ありませんから」

「いるのかいないのか……それだけを聞いている」


深く、重く、そして優しい声。

どうでもいいと言いながら、私の体が反応し、少しずつ手に汗をかいていく。



負けるものか……



「お付き合いをしている人はいます。今は幸せですから、なので……」


ウソだった。でも、ここはそれを突き通す。

この人にだけは、常に強気な態度を見せていたい。


「本当に『幸せ』なのか?」

「はい……」


謙の腕が、私の左手を捕らえ、昔のようにそっと包み込んだ。

『愛している』と何度も言われ、その指先に酔わされた日々が蘇る。

人差し指が、何かを誘うように、まっすぐ動く。


「本当に、僕と君が愛し合ったときよりも幸せだと言うのなら、
この手を振り払えばいい……」


ゾクゾクするような感覚が、体全体に走っていく。

手を動かし、その場を離れるつもりが、左手だけが別の人格を持ってしまったように、

命令を聞かない。


「妻とは、別れるつもりだ」


聞くつもりもなかったその言葉に、最後の力を振り絞り、謙の手を外す。


「辞めてください、1杯だけと約束したはずです、これで失礼します」


私は、謙の顔を見ることなく、異様な空気の漂う店を飛び出した。

人をバカにしたようなことをしてくれたと、怒りの感情が充満すると思っていたのに、

触れられた指先の感覚に、私の身体は別の感情を呼び起こす。



『歌穂……』



必死に足を前に進め、身体に別の感覚を与え続ける。

立ち止まると、どこかから急かすような思いが湧き上がり、

忘れていたはずの時間を、探すような気がしてしまう。



あの人に抱きしめられていた時を……

あの人のことを信じ、全てを受け入れていた時のぬくもりを……



家族がありながら、外に愛人を作り、家のことなど振り返ることもしなかった父。

その父が持つ、別の『男』の顔を知っていたくせに、母は何も知らないふりをし続けた。

今日は帰るという電話に、『女』の顔を嬉しそうに出し……



裏切った男に、都合よく誘われただけなのに、

怒りや嘆きではなく、悦びが前に出そうになる自分が、たまらなく嫌になった。

大嫌いな父と、大嫌いな母と同じになってしまう。



今、自分が『女』であることが、嫌でたまらない。

女はどうして愛した人を、自らの身体に受け入れなければならないのだろう。

愛情を押しつけた男は欲望を満たすと、すぐにその感覚を忘れてしまうのに、

残された女は、その愛の残像に苦しみ続けるのだ。



『あの人のぬくもり』を探し、あの人につけられた記憶を、呼び起こしてしまう。



どうせ人など、自分が一番かわいいのだから……

人のことなど、自分以上には愛せないのだから……





謙を振りきり、電車に乗り、私はいつものコンビニに入る。

乱された頭の中を、テレビを見ることだけでは無理やり整理することも出来ないと、

チューハイの缶を2本手に取り、レジに向かった。

お釣りを受け取り、ビニール袋を揺らしながらマンションの入り口に向かうと、

部屋の番号を押す。

開いた扉から中に入り、エレベーターに乗ると、3階で降りた。

そのまままっすぐ歩こうとすると、隣の部屋の扉が開く。

思わずぶつかりそうになり、歩みを止めた。


「あ……すみません、こんばんは」

「こんばんは」


今まで会うことがなかったのに、このところよく梶本君と会うようになった。

まぁ、職場が同じなのだから、生活する時間帯も似てくるのだろう。

それにしても、なんだか少し、焦っている気がする。


「米森さん、この辺に銭湯ありませんか」

「銭湯? どうして」


梶本君は、昨日あたりからお湯の出がおかしかったと話しだす。

それでも、日付が変われば元に戻るだろうくらいに軽く考え、

あまり気にせずにいたのだが、今日戻ってきてお風呂のお湯をひねっても、

いつまでたっても水ばかりで、お風呂に入れないと愚痴り始めた。

もしかしたらマンション全体に何かが起きたのかと思い、私はすぐに部屋へ向かう。


「ちょっと待って、試してみる」

「はい……」


荷物をテーブルに置き、風呂場へ向かう。

ボタンが赤になっている蛇口をひねると、しばらくしてお湯が出てくるのがわかった。

とりあえずうちは壊れていないようでほっとする。


「出ましたか?」

「うん……」

「そうですか、よかったですね」


梶本君は、ネットででも調べてみますと頭を下げ、隣へ戻っていった。

東京でも郊外ならともかく、ここに住んで8年になるけれど、

近所に銭湯など聞いたこともない。

まだ、真夏だとは言えないが、お風呂に入らないのは接客をする手前、

あまりいいことだとは思えない。


「ふぅ……」


私はとりあえず部屋の中と風呂場を軽く見ると、まぁ、片付けてある方だろうと思い、

隣の部屋へ向かい、インターフォンを鳴らした。




【2-3】

昔の彼と、隣の後輩に振り回される歌穂……
『恋』する気持ちは、どこかに落ちているのか。
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