5 心が揺れる女 【5-6】

【5-6】

「おぉ……兄ちゃん、名前はなんだっけな」

「梶本ですよ、梶本。忘れちゃったんですか?」

「忘れたわけではない。この間、会社に来た……」

「はい。美味しいお茶をごちそうになりましたよね」

「おぉ、おぉ、そうだった、そうだった」


早野さんは、高野さんが振り込み手続きをしないと指をさして怒り、

すぐにするようにと、紙袋に入ったお金をカウンターに置いた。


「大金じゃないですか、すぐってことは、時間の指定でも?」

「あぁ、息子が電話でそう言っていた。早くしないと取引が出来なくなるって。
嫁は知らないからいいんだ」

「そうですか、わかりました。で、取引というのはどういう企業ですか」

「いや、そこまではわからん。とにかく金を入れてからだ」


梶本君は早野さんと話をしながら、窓口担当のパートさんを動かし、

機械を操作する素振りを見せた。

しかし、どういう取引なのかわからないまま手続きするのは難しいと言い、

息子さんに確認をしていいかと問い返す。


「確認? そんなものは必要ない」

「申し訳ありません。早野さんの大事なお金です。
こちらもミスのないようにと、全てのみなさんに高額の場合は確認をお願いしています。
はい、もし間違えたところに送金してしまったら、それは大変ですから。
手数料も今は、安くないですからね」


梶本君は、あくまでも早野さんの行動が間違っているわけではないと説明し、

早野さんに自分の携帯電話を手渡していく。

早野さんは自分でかけるのは嫌だと番号を言い、梶本君はそれを素早くかけた。

電話は会社につながり、事務員は外にいるという息子さんにつなげてくれたらしく、

語る顔には余裕が見える。


「はい、いつもお世話になっております。『東日本成和銀行』の梶本です。
はい、少々お待ちください」


梶本君は早野さんに受話器を持たせ、息子さんと直接話をさせた。





「ありがとうございました」

「いや……」


その日の昼休み、

高野さんは、早野さんを怒らせてしまったフォローを梶本君がしてくれたことに、

何度も感謝していた。

犯罪に巻き込まれている状態の方を正論で説得しようとすると、

逆に反発をされることがよくある。

その話は最初の新人研修で強く言われているはずなのに、

いざとなると、つい抑える方ばかりが前へ出てしまうものだ。


「時間をかけてあげると、なんとなく本人も気付くときがあると思うんだ。
でも、瞬間的に判断するとなると、冷静になれないところもあるしね」


私は野菜炒めを食べながら、確かにその通りかもしれないと思っていた。

いつも冷静でいるつもりだけれど、人は瞬間で気持ちを変えてしまう。

間違っているとわかっても、それを認めたくなくて深みにはまることも、

あるかもしれない。


「あ……有働副支店長、体調、戻られたんですか?」


井上さんが、午前中本店に顔を出していた謙の出社に、明るい声を出した。

お弁当箱を持ちながら、少しだけ顔をあげると、確かに顔色も元に戻っている。


「あぁ……もう大丈夫だ。迷惑かけて申し訳ない」

「いえ……」


井上さんは、副支店長のことなら、どんなことでもフォローしますと言い、

高野さんに調子がいいと笑われた。

私は食事が終わったので、お弁当箱の蓋をしっかり閉め、その場を離れようとする。


「米森さん、食事が終わったのなら、少しいいかな」

「……はい」


会議室へ呼ばれた私は、食事の片づけを終え、そのまま上へ向かった。

おそらく先週のお礼を言うためだろうと思い、扉を軽くノックする。


「失礼します」


扉を開けると、謙はポケットから忘れたハンカチを取り出し、私に差し出した。

私はそれを受け取り、すみませんと頭を下げる。


「頭を下げるのは僕の方だ。先週は本当に助かった。
あの薬、確かによく効くね」

「はい、いつでも飲めるのが、結構便利ですよ」

「あぁ……」


私はそれではと頭を下げ、部屋を出ようとした。


「歌穂……。今度、食事に行かないか」


謙の誘いに、ドアノブへ伸びた手が止まる。


「そんなふうに、気をつかっていただかなくて結構です」

「気をつかっているわけではないよ。君と食事がしたい……それだけだ」


『食事がしたい』

私はその言葉に、反論が出来なかった。

いや、むしろ心のどこかで、トクンと脈を打つような音がした気がする。


「店は予約する。歌穂の都合がいいのなら、明日にでも……」



米森さん……

歌穂……



謙は私の名前を、巧みに使い分ける。


「わかりました。副支店長がお礼だとおっしゃるのなら、お受けします」


これはあくまでもお礼。私は自分でそう位置づけをした。

謙は一瞬戸惑ったような顔をしたが、小さく頷き、言葉を受け入れる。

私は仕事に戻りますと頭を下げ、そのまま会議室を出た。



【6-1】

動き出す恋模様。雨は心を濡らし、花火は心を照らす。
歌穂の『心』は……ゆっくりと歩き出しているようで……
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