18 思い出を残す男 【18-4】

【18-4】

新入社員を意識したCMが、テレビで流れ始めた3月の終わり、

『東日本成和銀行』には、鴫原有紀のポスターが張り出されるようになった。

『うるつやリップ』の頃とは違い、スーツに身をつつみ、髪も黒髪、

そして空を見上げる姿は、本当の新入社員のようにも思えた。


『302号室』


3月の終わり頃から、何人か部屋を見に来る人がいて、4月に入った日曜日、

新しい住人が隣の部屋を借りることになった。

インターフォンを鳴らされて外に出ると、

挨拶してくれたのは、真面目そうなメガネをした男性で、

手には小さなお菓子の箱を持っている。


「あの、隣に越してきました。鈴木と申します」

「あ……米森です」

「よろしくお願いします」


鈴木さんはものすごく深いお辞儀をした後、それだけを告げ、

お菓子の箱を差し出すとすぐに帰っていった。

今時、隣の部屋の人に挨拶を配るのも珍しい。

そして、どこか直立不動のような立ち方で話すのも……



……でも、『恋』にはなりそうもないなと、すぐにそう思った。





「よろしくお願いします」

「いやいや、こちらこそ頼むよ。米森さんが来てくれたら仕事は倍の速さになるね」


4月になり、私は、正式に融資業務へ異動となった。

銀行は人にお金を貸し、それを回収することで利益をあげている。

どんどん貸してあげることは利益を増やすことになるけれど、

貸し方を間違えたりすれば、トラブルが大きくなる。

近頃はローンも家を買うだけではなくなっていて、金利の計算も、資産の判定も、

色々なパターンがあった。


「これ、入力頼みます」

「はい」


熊沢課長は以前から知っているし、話しやすい人だったので、

そんなに考えることなく入っていけたし、私にとって、1階の景色を見なくなることは、

気持ちを変えていくという意味でも、助けてもらえた。

1階にいれば、気付くと圭の座っていた場所を見てしまい、

思い出の中に引き込まれそうになる。

慌しく動いていた4月は終わり、気付くと5月も後半になっていた。





「ふぅ……このお店、少しお酒が強くない?」

「そうか?」


私はその日、謙と初めて入る店で食事をした。

その日は、本店で支店長会議が行われ、同時に、融資関係の説明会もあったため、

謙の方から食事に誘ってくれたのだ。

2月に圭と別れてから、こうして謙と二人で会うのも初めてになる。


「食事も美味しかったし、雰囲気もいいけれど……」

「何?」

「この椅子、少し座りづらい」


クッションが合わないのだろうか、なんだか落ち着く気がしなかった。

謙は、女はあれこれ見るところが多くて、店も大変だと笑う。


「わかったよ、次は別の店を選ぶ」

「次? 次があるなんて言ってません。今日は会議が重なっていたし、
このお店に興味もあったから……」

「はいはい」


謙はそう言いながら口元をゆるめ、グラスに口をつけた。

左手の指輪がないことは、以前から気付いていたけれど、

どうなったのかと聞くのはあえて避けてきた。

私がそれを期待していると思われるのは、嫌だから……


「融資の方はどうだ」

「落ち着いて仕事が出来てます。熊沢課長は元々、話しやすい方だし、
『寺町支店』から来ている行員の方たちも、みなさん明るくて」

「そう……」


謙の両手が、目の前で組まれていく。

私は視線を指から外し、グラスの淵を見た。


「少しは気持ちの整理がついたのか」

「……気持ち?」

「あぁ……」


圭のことを忘れたのかと聞かれたら、それはないけれど、

ただ、部屋の中でボーッと時をつぶしたり、

自動販売機の前でため息を落としていた時期とは、変わった気がする。


「……そちらは?」


謙の口調が優しかったからだろうか、思わず私は彼の状況を聞いていた。

謙は私の顔を見ないまま、小さく何度か頷いている。


「……3月の末に、正式に離婚した」


私は自分で聞きだしたくせに、どう言えばいいのかわからなかった。

そうなんだとどういう表情で返すべきなのか、それをあれこれ考える。


「正直疲れた。別れるという行為は、結婚することよりも数倍体力を使うものだな」

「……そう」


あの日、タクシーで私の前に現れた謙の奥さん。

絶対に渡さないと、そう捨て台詞を残していった。

今、どんな思いで、いるのだろう。


「焦りはしない……」


謙の言葉に、私は顔を上げる。


「さすがに、今は動ける気がしない」


『動く』という意味は、言わなくてもなんとなく感じられる。

『森口支店』へ来た当時のように、いたずらに私を刺激するような口調ではなく、

落ち着いた思いが、そこにある気がして、逆に言い返せない。


「……出ようか」

「はい」


互いにグラスの中にお酒を残し、その日は店を後にした。
ぬくもりをもらった。




【18-5】

流れていく季節と、残り続ける彼への思い。
いつの日も、『思い出』は歌穂の心を支配し続ける……
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