3 汚れた手 【3-5】

【3-5】

「実は『パール』が、近頃、夜に鳴いてばかりいるのです」

「夜に?」

「最初の数日はそんなことはなかったので、慣れたと思っていたのですが。
なんだか寂しいらしくて。それで、友達に話をしたら、慣れている匂いがあると、
落ち着けるんだよって聞いて。それなら、後藤さんのものとか、
工場で遊んでいたおもちゃとか、何かいただいてこようかなと」

「あぁ、そうだったのですか」


確か工場の中で、休み時間に使っていた軟式のボール。

『パール』が気に入ってよくじゃれていたことを思い出した。

僕はすみませんと一言頭をさげて、助手席に座る。


「はい、どうぞ」


運転席に座った椎名さんが、僕に向かってハンカチを差し出した。

真っ白いレースのついたハンカチを持つ彼女の手は、同じように白い。


「左手、血が出てますよ」


そう言われて手を見ると、午前中に作った切り傷から、

いつの間にか血がにじみ出ていた。

下に流れていくようなケガではないけれど、

手の甲という場所が場所だけに目立ってしまう。


「あぁ、大丈夫ですから」

「でも……抑えた方がいいのではないですか?」

「いえ……今朝の傷口が、ちょっと開いたのでしょう。たいしたことではないです」


ただでさえ、真っ白なハンカチを汚すのは、気が引ける。

さらに彼女のものだと思うと、もっと触れてはいけない気さえした。


「ティッシュか何かがあれば、それで」


そう言いながら、自分が身軽な格好で出てきてしまったことを思い出す。

ポケットに財布と携帯だけ押し込んできたので、何も持っていない。


「ティッシュですね……ちょっと待って」


椎名さんがバッグを開き、ティッシュを探している時、駐車場に1台の車が入ってきた。

一番奥の場所に止めると、運転席が開く。

出てきたのは拓だった。

拓の足は、ビルの入り口には向かわず、こちらへ向かう。

車で、彼女のものだと気づいたのだろう。


「……遥。ん?」


中をのぞけば、当然、助手席にいる僕にも気づく。

拓は明らかに嫌そうな顔をしたまま、運転席のガラスを叩いた。

椎名さんは顔を上げ、軽く手を振ると窓を開ける。


「拓ちゃん、お帰り」

「遥、お前何をしているんだ」

「何ってティッシュを探しているの。後藤さん手にケガをしていて、それで」

「ケガ?」


最悪の状態になってしまった。一番嫌な場面を、こう見事に引き当ててしまうとは。

元々、車にだって乗せてくれと頼んだわけではないし、

ケガの処置もしてほしいと願ったわけではない。

成り行きでそうなっているのだけれど、説明出来るような状態ではなかった。


「あ、あった。はい、どうぞ」


カバーに入った、ポケットティッシュを受け取り、

僕は傷口に浮き上がっている血をおさえた。


「拓ちゃん、ちょっとごめんね。これから後藤さんを送ってくるから」

「送る? どうして遥が」

「どうしてって、『パール』のためにいただきたいものがあるから」


椎名さんはそういうと窓を閉め、エンジンをかけ始めた。

駐車場には、納得がいかない顔をした拓だけが残される。

僕は、自分から望んだわけでもないのに、

またアイツの反感だけを目いっぱい買ったように思えた。





道路は、混雑もなく順調だった。

この分なら、あと20分もすれば工場に着くだろう。


「あの……」

「はい」

「いつもそんなふうに、手に怪我をしてしまうのですか?」


椎名さんは赤信号になり、僕の方を向きながらそう尋ねて来た。

それにしてもこの切り傷、いったいどこでつけたのだろう。


「いえ、そんなに毎日怪我をするわけではないですよ。
整備をするときには、しっかりと軍手をつけていますし」

「あぁ、そうですか、よかった。毎日、こんなふうに血を流しているのかと、
ちょっとドキドキしていました」

「いえ……」


そんなことが実際に起こったら、誰もこんな仕事をしないだろう。

椎名さんの想像が予想外のもので、なんだかおかしくなる。


「ただ、仕上がりを確かめたくて、軍手からだと伝わらないので、
つい素手であれこれ触ることもあって。
そうすると、ちょっとしたサビの部分で傷つけたり、部品を運ぶときに傷つけたり、
気付かない怪我の方が多いかもしれません。正直、この手の傷も、なぜついているのか、
僕にはわからなくて」

「わからないのですか? どうして怪我をしたのか」

「あ……まぁ。また、どこかでやったな……と、思うくらいで」

「あら……」


擦り傷も、切り傷も、当たり前のように思っていた。

椎名さんはどこかで消毒液でも買った方がいいのではと、まだ気にしている。


「本当に平気ですから」


ハンカチを貸してくれようとした時の、彼女の白い手。

あの手には確かに、こんな切り傷はつかないだろう。


「あ、この曲がり角、右へ入ってください」

「右? でも、ナビは……」

「ナビっていうのは、何も知らない人が走りやすい道を選択するように
出来ているんですよ。だから、必ずしも最短距離とは言えないところがあります」

「そうなのですか」

「はい」


ここは右に曲がって、川沿いを走った方がいい。

混雑もないし、信号も少ない。そして……


「川沿いですね」

「そうです。結構、開放感があるでしょ」

「えぇ……」


僕たちを乗せた車は、信号に止められることもなく、順調に走り続けた。



【3-6】

一度だと思っていた偶然が、ふと気づくと重なっていた。
僕の手に刻まれた時間と、そして……
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