5 思惑の渦 【5-6】

【5-6】

「歩、頼む」

「はい」


僕は赤石さんの仕事をフォローするため、自分の工具が入ったケースを押していく。


「あのさ、エンジンのここ、これ試して」

「はい」


そこからは、他の場所で何を話しているのかなど気にならないくらい、

修理に集中した。音に耳を澄ませ、感覚に指を滑らせる。

BGMに流しているラジオの番組が、一つ、また一つと変わっていった。


「歩、いいか」

「はい」


エンジンをかけ、動きを確認する。少しためのあった箇所が、

スムーズな動きに変わっていた。


「赤石さん、こっちはOKです」

「よし、終了」


手袋を外し、工具のあるケースに置く。

軽く汗をぬぐうと、そこに1本の缶コーヒーがあることに気付く。

誰かの差し入れだろうか、花の形をした付箋がついていた。



『私が大好きな缶コーヒーです』



いつの間にこの場へ置いたのだろう。

ふと見ると、彼女のオレンジ色の車はなくなっている。

作業に集中していたので、椎名さんが帰ったことにも気づかなかった。


「ねぇ、みんな。少し早いけれど、お昼にしよう」


奥さんの声が事務所からかかり、

僕は椎名さんがくれた缶コーヒーを、作業服のポケットに押し込んだ。





それからというもの、仕事が早く終わるという木曜日の夕方、

椎名さんは工場へ来るようになった。

最初の日は、どこかぎくしゃくしていた社長の対応も、2回目には柔らかくなり、

3回目には、前から親しかった人なのかと思えるくらい、笑い声が響く。


「遥ちゃん」


椎名さんと呼ばれていた彼女は、すっかり『遥ちゃん』の呼び名で、

統一されるようになっていた。


「これで、どうでしょうか」

「どう?」


整備士として勤めているメンバーの中で、唯一パソコンを操れるのが僕だったため、

椎名さんが改良してくれたホームページの使い心地を確認する。

以前は、会社の名前がチカチカと光るだけだったが、それは取りやめになり、

簡単な見積もりの予想や、比較的スケジュールが空いている日などがわかり、

『車検』に持ち込む日を選びやすくする工夫がされていた。


「写真を?」

「はい。今は携帯でも写真が撮れますから。傷のある場所や大きさ、
車の色など、あらかじめわかっていれば、
すぐに作業に入れるのではないかと思いましたので」


確かに、あらかじめどういう車なのかがわかっていれば、

こちらも迎えやすいとは言える。


「でも、写真を撮れる人ばかりでは」

「それはこちらで」


椎名さんは車の前方、後方、横向きの図を書いた用紙を配置していて、

そこにマウスで印をつけられる工夫までこなしてあった。

写真ではないので、具体的にはわからない部分もあるけれど、

だいたいの様子はつかめるだろう。


「何か知ってもらえているという安心感で、ここへ持ち込む方が増えたら、
それはきっと、口コミで広がります」


『口コミ』が大きいことは、よくわかっている。

通りすがりの人たちだけで商売できるほど、この世の中は甘くない。

だからこそ、小さなつながりを大きく膨らませる方法は、色々とっていかないと、

波に乗り遅れるばかりだろう。


椎名さんの頑張りのおかげで、

『半田自動車整備』は、しっかりとした宣伝媒体を持つことが出来た。





「あぁ……こういうことですね」

「はい」


奥さんからの指示で、僕は毎日1時間早く作業を終了し、

PCでの問い合わせに対する、簡単な返事担当を任されることになった。

まぁ、PC恐怖症の栗丘さんや社長は、最初から戦力外なのだから、仕方がない。


「ありがとうございました。だいたいのことは理解が出来ました。
これなら明日からでも使えそうです」

「いえ……」


インスタント先生を勤めあげてくれた椎名さんの声は、

僕が思っていたよりも小さかった。



【6-1】

僕の居場所は、ここではない……そう歩が気づくとき、
近かった人の温かい手が、とても遠くに感じられて……
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