「歩、頼む」
「はい」
僕は赤石さんの仕事をフォローするため、自分の工具が入ったケースを押していく。
「あのさ、エンジンのここ、これ試して」
「はい」
そこからは、他の場所で何を話しているのかなど気にならないくらい、
修理に集中した。音に耳を澄ませ、感覚に指を滑らせる。
BGMに流しているラジオの番組が、一つ、また一つと変わっていった。
「歩、いいか」
「はい」
エンジンをかけ、動きを確認する。少しためのあった箇所が、
スムーズな動きに変わっていた。
「赤石さん、こっちはOKです」
「よし、終了」
手袋を外し、工具のあるケースに置く。
軽く汗をぬぐうと、そこに1本の缶コーヒーがあることに気付く。
誰かの差し入れだろうか、花の形をした付箋がついていた。
『私が大好きな缶コーヒーです』
いつの間にこの場へ置いたのだろう。
ふと見ると、彼女のオレンジ色の車はなくなっている。
作業に集中していたので、椎名さんが帰ったことにも気づかなかった。
「ねぇ、みんな。少し早いけれど、お昼にしよう」
奥さんの声が事務所からかかり、
僕は椎名さんがくれた缶コーヒーを、作業服のポケットに押し込んだ。
それからというもの、仕事が早く終わるという木曜日の夕方、
椎名さんは工場へ来るようになった。
最初の日は、どこかぎくしゃくしていた社長の対応も、2回目には柔らかくなり、
3回目には、前から親しかった人なのかと思えるくらい、笑い声が響く。
「遥ちゃん」
椎名さんと呼ばれていた彼女は、すっかり『遥ちゃん』の呼び名で、
統一されるようになっていた。
「これで、どうでしょうか」
「どう?」
整備士として勤めているメンバーの中で、唯一パソコンを操れるのが僕だったため、
椎名さんが改良してくれたホームページの使い心地を確認する。
以前は、会社の名前がチカチカと光るだけだったが、それは取りやめになり、
簡単な見積もりの予想や、比較的スケジュールが空いている日などがわかり、
『車検』に持ち込む日を選びやすくする工夫がされていた。
「写真を?」
「はい。今は携帯でも写真が撮れますから。傷のある場所や大きさ、
車の色など、あらかじめわかっていれば、
すぐに作業に入れるのではないかと思いましたので」
確かに、あらかじめどういう車なのかがわかっていれば、
こちらも迎えやすいとは言える。
「でも、写真を撮れる人ばかりでは」
「それはこちらで」
椎名さんは車の前方、後方、横向きの図を書いた用紙を配置していて、
そこにマウスで印をつけられる工夫までこなしてあった。
写真ではないので、具体的にはわからない部分もあるけれど、
だいたいの様子はつかめるだろう。
「何か知ってもらえているという安心感で、ここへ持ち込む方が増えたら、
それはきっと、口コミで広がります」
『口コミ』が大きいことは、よくわかっている。
通りすがりの人たちだけで商売できるほど、この世の中は甘くない。
だからこそ、小さなつながりを大きく膨らませる方法は、色々とっていかないと、
波に乗り遅れるばかりだろう。
椎名さんの頑張りのおかげで、
『半田自動車整備』は、しっかりとした宣伝媒体を持つことが出来た。
「あぁ……こういうことですね」
「はい」
奥さんからの指示で、僕は毎日1時間早く作業を終了し、
PCでの問い合わせに対する、簡単な返事担当を任されることになった。
まぁ、PC恐怖症の栗丘さんや社長は、最初から戦力外なのだから、仕方がない。
「ありがとうございました。だいたいのことは理解が出来ました。
これなら明日からでも使えそうです」
「いえ……」
インスタント先生を勤めあげてくれた椎名さんの声は、
僕が思っていたよりも小さかった。
【6-1】
僕の居場所は、ここではない……そう歩が気づくとき、
近かった人の温かい手が、とても遠くに感じられて……
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5 思惑の渦 【5-6】
【5-6】
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