9 別の世界 【9-2】

【9-2】

「私のことが……嫌いだということですか?」


思わず首を振ってしまった。

嫌いなのかと聞かれたら、それは違う。


「私といると楽しいと……そう言ってくれましたよね」

「はい」

「それなら、なぜこんなふうに、急に拒絶するのですか?」

「僕は……」

「誰に何を言われたのかわかりませんが、私の生きる道は私が決めます。
そう前にもお話しましたよね」

「……聞きました」

「それならばなぜ……」


それならばなぜ……そう何度も聞いてくる椎名さんの気持ちは、よくわかる。

誰でも、自分の生きる道を自分で決めることなど、ごく普通のことだ。

でも、僕は椎名さんの道に、関わることが出来ない。




「初めてです。自分から『会いたい』と思う人に出会ったのは……」




彼女は、ストレートに、素直に、言葉を使う。

心のままを、目の前にいる人に伝えられる。

何も構えず、何も恐れず、それはうらやましいくらいに……


「私……」

「拓は、あなたのことを真剣に考えています。伯父も、あなたのご両親も、
二人のことを祝福するつもりなのでしょう。
僕には、その中に割って入れる自信はありません」

「後藤さん」

「あなたと僕とは……生きている世界が違います。
楽しいとか嬉しいとかで関わろうとしても、すぐに限界が来ます」


一時なら『好き』だという気持ちだけで、何もかもを乗り越えられる気がしてしまう。

でも、現実を目の当たりにした時、人は自分の世界を打ち破れない。


2年前、ちふみと結婚の約束をした時も、

現実という大きな壁を引き合いに出し、反対する母親を説得することが出来ず、

結局、夢の中から抜け出せなかった。



椎名さんとは……

もっと、もっと、大きな壁がある。



「すみません、僕は、これだけの男です」


もう個人的に会わないほうがいいし、関わらない方がいい。

ズルズルと笑いあっているのは、妙な誤解を生むだけだ。

犬のことがあって、『TEA』さんのことがあったから、

偶然がここまで僕らを引っ張ってしまった。



でも、『偶然』だけでは、生きていけない。



僕は、あらためてタオルを握ると、汚れている窓を1つずつ丁寧に拭いていく。

僕が今、向かい合わないとならないのは、この車。

彼女の影がそばにあることはわかるけれど、その塊に動きが全く見られない。

表情を確かめたい気もするけれど、気持ちを揺さぶられそうで、自信が無い。


「ガッカリです」


僕は椎名さんの声を、背中越しに聞いた。


「すみません……」


そう、謝ることしか出来ない。

あの日、背中に手を添えてしまったのは、間違いなく僕の意思なのだから。


「『パール』を拾ってくれた人の言葉とは思えません」



『パール』



そう、道端に捨てられていたあの白い子犬が、これまでの偶然を生み出してくれた。


「後藤さんは、『パール』がそこにいたから、
目の前で生きようとしていたことをわかっていたから、救ったのではないですか?」


そう、僕は子犬の命を救った。

目の前で、必死にもがき、自由になろうとした子犬を、拾い上げた。


「『パール』は、自分が雑種であることも、捨てられていたことも、
何一つ気にしていません。散歩に行けば他の犬とも仲良くなれますし、
自分を脅かす態度を取られたら、臆することなく立ち向かおうとします」


雑種であることも気にせず、椎名さんは『パール』を受け入れた。

こうしてここにいる彼女の性格を思えば、当然のことなのだろう。


「別の世界ってどういうものですか? 
私は、この世の中に、別の世界が存在していると考えたことはありません。
人も犬も一つの命です。上も下も、別もありません」


そう、心が競り勝っている時には、誰もがそう思うものだ。

何があっても乗り越えられる。誰に反対されても、負けはしない。

しかし、その世界の壁は、どこからか突然に現れる。


「……とにかく、僕が言えるのはこれだけです」


言葉にならない心の奥底で、ただひたすら謝った。

今、引いておかなければならないのだと、何度も繰り返す。

嫌われても、軽蔑されても、それはそれで仕方がない。


「……もう……いいです」


椎名さんは、僕に背を向けたまま、ただまっすぐに歩いて行った。

視線があわなくなる距離を確認し、その背中を追う。

聡明な彼女のことだ、僕の言いたいことは理解してくれただろう。

視線を下に戻し、僕は窓ガラスを納得いくまで拭き続けた。



【9-3】

立ち止まろうとするもの、乗り越えようとするもの
それぞれの心の中で、消えずに残る思いの灯
1日1回、読みましたの拍手、ランクぽちもお願いします(@゚ー゚@)ノヨロシクネ♪


コメント

非公開コメント