10 見えない糸 【10-5】

【10-5】

「椎名さん」

「はい」

「ご両親は反対されていないのですか? 本当に」


お金持ちのお嬢さんが、一人暮らしをする。

しかも、理由が理由だ。普通の親なら反対するのではないだろうか。


「反対はされませんでした。
むしろ、自分で決めたのならやってみなさいと、言われただけです。
もちろん、反対されても、やるつもりでしたけれど」


椎名さんは、僕を見ることなく、背を向けたままそう言った。


「そうですか……」


僕が思っている以上に、椎名さんは強い女なのだろうか。

それとも、まだ壁の高さも強さも、わからないからなのだろうか。

それでも自分を信じ行動できる強さは、正直、うらやましくもある。


「今回の引っ越しも、何をどう準備したらいいのか、わからなくて困りました。
持って行きたいものを全て入れようとすると、とんでもなく狭いし、
これだけのスペースを借りるのに、これだけのお金がかかるのだと、
それもあらためて考えました」


お嬢さんとして生まれ、大学まで長い間寮生活をしていたと以前聞いた。

関わったことがなければ、知らないのも当然かもしれない。


「でも、そうして自分が前へ進もうとしていることが、
少しずつ楽しくなっていて、今は、完全に前を向くことが出来ています」


椎名さんはそう言うと、僕の方へ振り返った。

彼女の言うように、本当に明るい表情を向けてくれる。


「おばあさま、退院されてよかったですね」

「あ……はい」

「失礼します」


椎名さんは駅の方向へ向かって、歩いて行く。

もういいだろうと思うのに、このままではいけないような気持ちが、僕を焦らせる。


「椎名さん」

「はい、まだ何か?」

「あの……車は」


オレンジ色のかわいらしい彼女の車。いつもならあれに乗って事務所に来ていた。


「車は会社に置くことにしました。これからは毎日電車通勤です」

「電車通勤」

「はい。駐車場を借りてしまうと、予算オーバーでしたから」


『偶然』は、『偶然』を乗り越えようとしている。

僕は、まっすぐ歩いて行く彼女の背中を、ただ見送るだけだった。





9月10日。日曜日、カーテンを開けて見た空は、

薄雲がかかった秋らしいものだ。

快晴とは言わないが、雨が降るようなこともなさそうだった。

とりあえずほっとする。



『歩は、パールを見ていてちょうだい』



今日は、椎名さんの引越し。

まぁ、引越し自体は業者がいるので、そんなに人手がなくても出来るらしいが、

『パール』担当を奥さんに任命された僕は、勤務日だったこともあり、工場へ出勤する。


「おはようございます」

「あ、来た、来た、歩。行くわよ」

「行く? いや、『パール』がここへ来るのでしょ」

「来るも来ないも、とりあえずマンションまで行かないと」


奥さんは、『パール』を連れに行くためにも、

マンションへ行かなければならないと言い、どんどん準備を進めてしまう。


「手袋でしょ、それとタオル。ほら、歩も持って」

「本当にいいのですか? 工場を離れてしまって……」


そう言いながらホワイトボードで今日の仕事を確認したが、

組まれているものは何もなかった。


「今日納車はないのよ。飛び込みだけなら、倫太郎さんがいれば十分だし、
忙しくなったら、メールをしてって話しているから」


結局、僕は『パール』の面倒を見るために、

椎名さんのマンションまで、向かわないとならなくなる。

工場に2台ある自転車にそれぞれが乗りこみ、

5分ほどでつけるマンションへ向かい、走り出した。





「ここね」


椎名さんが決めたマンションは、オートロック式の結構新しい形だった。

奥さんは、椎名さんの部屋が3階だと教えてくれる。


「遥ちゃん、ラッキーだったのよ、最初は1階しか空いていなくて、
業者は女性一人だから1階はって、別の物件を薦めていたのだけれど、
3階を契約した男性が、急な転勤になって、で、キャンセルが出たのよ」


『1階』

マンションの前の道に、ある程度の人通りがあるとはいえ、

確かに1階は危ないだろう。このシルバーに光るベランダの柵も、

運動神経のいい人なら、簡単に乗り越えられそうだ。

中の部屋は、明るめの床板。


「そうですか……」


奥さんとその場で5分くらい待っていると、

小型のトラックがバックで入ってきた。エンジンが止まり、運転席と助手席から、

2人の作業員が下りてきた。


「すみません……」


奥さんはカギを持っていたため、業者と一緒に3階へ上がっていく。


「今日はよろしくお願いします」

「あ……はい」


僕は部外者なのだけれど、相手にはそう思えないのだろう。

とりあえず頭を下げ、作業の様子を見守っていると、そこに白い車が入ってきた。

運転をしていたのは若い男性で、後部座席からは椎名さんと『パール』が降りてくる。

『パール』は僕を見つけ、嬉しそうに尻尾を振りながら近付いてきた。



【10-6】

人と人をつなげる糸があるのなら、
どんなに細くても、自分の手でつかんでいたい。
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