8 素直な気持ち 【8-6】

【8-6】

『知花はそれでいいのか』

『……うん』

『本当にそれでいいのか?』

『……うん』


幼い頃から、自分の気持ちを素直に表現することが苦手だった。

和歌山に住む祖父の家に顔を出し、ケーキを食べるときにも、

一番最初に物を選んだことなどないし、数が足りないとわかると、

絶対に手を出すことはなかった。


祖父はよくそんな私を心配し、一番に手をつなぎ、必ず自分の横に座らせてくれた。



『知花、じいちゃんと一緒に山へ行こう』

『うん』



どれだけ選んでもなくならないたくさんの木と、

どれだけ吸っても吸いきれない山の空気。

生命の力強さを感じる木の香りが、心ごとリフレッシュさせてくれた。


そして、大好きになった木材が、形を変えていく。

『デザイン』は、私の生活の中で唯一、自分を思い切り出せるものだった。



『長峰さん……ですよね』

『はい』

『先日は、ありがとうございました』



幹人と出会ったのは、互いに同じ取引先へ顔を出した時だった。

幹人の慌てている様子から、携帯の調子が悪いことに気づき、

それならばと自分のものを差し出した。



『助かりました』

『いえ……』

『偶然ですが、長峰さんの番号を、知ることが出来て……』



助けてもらったお礼だと、食事に誘われた。

取引先で会うこともあるし、断るのはと思い出かけたが、

営業マンだけあって、会話もうまく、自然と惹かれていた。



『また……会えませんか?』



私自身が認められた……そのことが嬉しくて、速まる鼓動を抑えながら、

幹人からの連絡を待った。自分をしっかりと持ち、何事にも恐れずに進む彼の姿に、

私は憧れを抱いたまま、今まで一緒に歩んできた。


何よりも大好きなデザインだったけれど、それを諦め、

彼を支えて生きることが新しい道なのだと、そう自分自身に言い聞かせてきたのに……



『もう、終わったことだから……』



「おはようございます」

「あ……優葉ちゃん、おはよう」

「どうしたのですか? 考え事していたみたいに見えましたけど」

「考え事していたらおかしい?」

「おかしくはないですけどね」


二人でエレベーター前に立ち、開いた扉から一緒に乗り込んでいく。

隣に立った男性の整髪クリームの匂いがきつくて、狭い箱の中が息苦しくなった。

優葉ちゃんも気付いたらしく、その男性の後ろに立ち、堂々と鼻をつまむ。

私は肘で合図をし、気付かれないように二人で横を向いた。

優葉ちゃんの唇が、『息苦しい』と動き、私は笑いそうになるのをこらえる。

こういう時のエレベーターの動きは、スローモーションかと思えるくらい遅い。

彼よりも私たちの方が、先に下りることになった。扉がゆっくりと閉まっていく。


「はぁ……いやぁ、キツかったですね。呼吸困難になるかと思いました」

「そうだね、ちょっとあれは……匂いがあまりにも。
彼って、営業マンでしょうに、お客様とかに言われないのかしら」

「うーん……どうなのですかね」


エレベーターを降りた後、昨日、話題になった話をしながら事務所の扉を開けると、

社長の横に椅子があり、そこに一人の女性が座っていた。

こんなに朝早くから、仕事の依頼だろうか。


「おぉ、長峰、来た来た」


社長は私のことを見つけると、すぐに手招きをした。

呼ばれてしまったので、私は席に向かわずそのまま前へ出る。

女性は立ち上がり、こちらに向かって一礼すると、私に名刺を出してくれた。


「おはようございます。朝早くから申し訳ありません。
萩尾建築事務所の萩尾香住です」


私は名刺を受け取り、返礼した。

今までも建築士の人と仕事をしたことはあるが、この女性との面識はない。


「すみません、長峰知花です。名刺、机の中にありますので、今出します……」

「あぁ、いいよ長峰。とにかくここで話を先に聞きなさい。
萩尾さんが長峰をご指名で、仕事を依頼しに来てくれたんだ」

「私……ですか」

「あぁ……」



『私を指名』



6年、この事務所にいたけれど、指名を受けることは今まで一度もない。

しかも、事務所にいられるのはあと……


「あの……」

「あと数ヶ月でご結婚でしょ? 未来有望で、とても誠実な男性と……」



『未来有望で、とても誠実な男性』

萩尾さんの自信たっぷりな表情と、何もかもわかっているというこの言い方。





「ご結婚、おめでとうございます」





『同級生の一級建築士』

私に電話を何度もかけてきた人……





幹人の相手ではないだろうか……





私は、直感でそう思った。




【9-1】


《 Dressing人物紹介&豆知識 》

【塩野明恵】
経理担当、年齢43歳。
信太郎の恋人だが、タバコの煙が大嫌い。
飼い猫とドナルドダックにだけは、いくらかけても惜しくないと思っている。

コメント、拍手、ランクポチなど、お待ちしています。(@゚ー゚@)ノヨロシクネ♪


コメント

非公開コメント