16 Belief 【信念】 【16-3】

【16-3】


「あの、塾を辞めるつもりですか。それなら僕が辞めます。
相馬さんが辞める理由がありません」


そう、卑怯なことをしたのは僕で、彼女は何も悪くない。

むしろ、彼女がいることで、どれだけ学生たちの気持ちが、安らいでいるだろう。


「いえ、いいんです。元々、父の遺言として聞いていた『宇野柾』さん、
つまり宇野先生に会うために、私は東京へ出てきたのですから。
こうして、姉のカルテを、しっかり託すことが出来たら、もう……」

「でも……」

「私には、子供たちの未来や夢を広げてあげることは出来ません。
愚痴を聞いたり、破れた制服を縫ってあげることは出来ても、
目指す学校に入るだけの学力を、身につけさせることは出来ませんから」


相馬さんは、以前話してくれた『わさび』栽培を学ぶため、

今、動き始めているのだと教えてくれた。

静岡県、伊豆。

まだ、お姉さんが生きていた頃の町へ、戻るのだろうか。


「相馬さん……あの……」


その時、富田さんと澤野さんが店に到着し、閉められていた襖が開く。

相馬さんは座っていた座布団から降りると、入ってきた二人に頭を下げた。





4人が揃い、それぞれの前に飲み物が運ばれた後、

僕が、それぞれを紹介することにした。


「こちらは、僕が主に働いている『ストレイジ』研究班リーダーの澤野さん」

「どうも、澤野です」

「あ……相馬です。今日はすみません」

「いえ、いつも宇野がにやけてメールを見ていたので、
一度あなたにはお会いしたかったのですよ」


澤野さんのセリフに、相馬さんは少し驚くような顔をしたが、

すぐに笑顔になった。僕は、澤野さんに余計なことはいいですと釘を刺す。


「なんだよ、宇野」

「いえ……だから」

「澤野さんも、苗の強度を調べたりされているのですか」

「……はい?」

「宇野先生から、何度か仕事のお話を聞かせてもらったことがあります。
強いものを作るために、あえてキツイ環境の中に入れる話とか、
あと……遺伝子の分析をするために、配列を変えてデータを取る話とか……」


相馬さんの言葉に、今度は澤野さんが驚く顔をする。


「宇野、お前そんな話を彼女にしたのか」


僕はそうですと頷き返す。

あらためて内容を聞いていると、確かに女性に話すには専門的すぎるし、

おもしろみがない。


「退屈だったでしょ」

「いえ、全然」


相馬さんは自分の知らない話を、楽しそうに語られると、

それを知らないことが損しているような気持ちになり、どんどんのめりこんだと、

笑ってくれた。



『とうもろこしの……』



『とうもろこしの粒の揃え方』

『苗の強度を計る方法』

『強い遺伝子を残すには、どう働きかけるのか』



思い返すだけでも、いくつもあった。

聞いてくれていることがわかっていたから、だから誰にもしなかったような話を、

好きなように語ることが出来た。


「人の未来を造る、素敵なお仕事ですね」


『ストレイジ』での仕事。

僕は、もらえる金額や、待遇しか意識したことがなかった。


「いえいえ……」


確実にその時間が近付いている……

そう思いながらも、何一つすることが出来なかった。





それぞれの紹介が終わり、

相馬さんは、僕にも見せてくれた智美さんの治療データを上に置いた。

富田さんは失礼しますと挨拶をし、そのカルテや治療報告書を隅から読み続ける。

治すことが難しい病気。

これは、長い間、家族全員で立ち向かったという記録。


「ふぅ……」


富田さんは大きくため息をつくと、資料を全て封筒に戻す。

緊張した時間が、僕らの中に流れた。


「相馬郁美さん……でしたよね」

「はい」

「あなたのお名前を、ドイツにいらっしゃる大平先生にお話したところ、
来月、日本へ戻ってきた時、私に会ってくださると約束してくれました。
当時、この手術に関わってきた一人として、おそらく証言をしてくれるつもりでしょう」


相馬郁美という名前を、岩佐教授の友人である大平先生は、

しっかりと覚えていた。その協力があると知り、語る気持ちになってくれたのだろう。


「勇気のいることを、ありがとうございました」

「いえ……」


亡くなってしまった家族の記録。

しかも、当時、許されない事情を抱え、治療に踏み切った父、母、姉。

相馬さんにとってみたら、このデータが家族の一部分なのだろう。


「亡くなられた岩佐教授や、この治療に関わってくださったみなさんに、
迷惑がかからないようなやり方をと、思っています。『中央新聞社』では、
小さなことを追うつもりはありません。巨大な悪の顔を、世の中に見せるため、
なんとか……」

「あの……」

「はい」

「難しいかもしれませんが、出来るだけ誰も傷つかない方法を選んでください」


相馬さんは、そういうと、前にいる二人にしっかりと頭を下げた。




【16-4】

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