18 Aroma 【芳香】 【18-6】

【18-6】


亡くなった相馬智美さんは、難しい病を抱えていた。

岩佐教授に未承認の薬を使ってでも、治療をして欲しいと願った母。

しかし、その時の教授は、立場もあり、それをOKしなかった。


母と娘二人は、環境のいい場所を選び、『伊豆』へ引越しをする。

そこで……



そう、そこで……



智美さんが手術をするまでの期間、何もしないで過ごしていたとは思えない。

それなりに入院したり、治療もしていただろう。

費用はある程度岩佐教授が出していたとしても、確か相馬さんは、

民間療法から、出来そうなことは何でもお母さんがしていたと、話していた。

借金は、そういう時期に、出来たものなのだろうか。



亡くなった母のものなら、彼女が背負うことなど、ないはずなのに。



「柾……」


なんとなく聞こえた声。

次の瞬間、僕の足を叩く音がした。


「何……」

「何じゃないでしょ。人が今度の休みは何をするのか聞いているのに。
心ここにあらずで」

「ん?」


隣に寝ているのは、彩夏だった。

素肌の上にケットをかけた状態で、何やら高級旅館の載っているパンフレットを、

数冊ベッドに散らばしている。


「ここね、エステのコースがついているんだって」

「エステ?」

「そう……」


僕は、彼女が散らばせたパンフレットを1冊取ると、パラパラと何気なくめくってみた。

前回泊まりに行った旅館と同等、それ以上の値段設定がされているものばかりが並ぶ。

彩夏は鼻歌を歌いながら、気に入った箇所の端を指で折っている。

僕は、左側に置いてあったタバコを取り、中から1本出すと、それに火をつけた。





それから3日後、昼過ぎから突然の雨が降り出した。

僕は少し前に塾へ到着していたため、特に問題なくコーヒーを飲んでいたが、

時間が進むごとに、雨足はさらに強くなる。


「はい、『SOU進学教室』です。はい……あぁ、こんにちは」


事務の町田さんは、ずいぶん仕事に慣れたのか、片手で書類に印を押している。


「エ? 40分? それは……」


電話の相手は誰だろう。これから来る学生となると、メンバーも限られているけれど。


「ちょっと待ってくれるかな」


町田さんは電話の保留ボタンを押すと、一度ため息をついた。

目が僕の方に動き、軽く頭を下げてくれる。


「もしかしてアレン?」

「はい、すみません。なんだか授業で校外にいたらしくて、
つなぎの電車が、この悪天候でうまく流れていないみたいなんです」


アレンは、外出先でこの雨に出くわしたらしい。

町田さんは、40分くらい遅れてしまうけれど、必ず行くとアレンが話していると、

受話器を指差している。


「宇野先生。塾のルールでは、当日の延長や日付変更は認めていませんから、
山東さんには、別の日に組みなおすよう、話した方がいいですよね」


一人の生徒に仕える時間は、70分。

40分も遅れられては、確かに普通の授業にはならないだろう。



『宇野先生……お願いします』



相馬さん……



「山東さん、授業はまた別の日に……は? いや、でもね、それは」


町田さんはまた受話器を保留にする。


「今日じゃないとダメだって、もう……」

「いいですよ、あいつの頑固なところは、昔からです。待ってますから、
気をつけて来いと言ってください」


始めは僕も、別の日に受けなおせと指示しようとしたが、

目の前にあったカレンダーの日付に、その考えを止めた。



『宇野先生、アレン、試験前は今日だけなんです』



相馬さんがここにいたら、きっと、そんなことに気付いただろう。

試験の前にわからないところを、わかるようにしてあげて欲しい。

そう、言ってきただろう。


「いいんですか、宇野先生」

「いいですよ」


町田さんは、すみませんと言いながら、電話のアレンにすぐ来るようにと、

そう告げていた。

僕は、自分のカップに触れながら、戻らない日々を、心の中に戻し始める。


アレンが他校の生徒とケンカをし、制服をボロボロにして来た日、

相馬さんは自分が直す時間を作るため、授業を短くしないで欲しいと頼んできた。

制服を直す間、アレンは相馬さんのカーディガンを借りて授業を受けた。

袖口をつかみ、優しい匂いがすると、確かそう言っていた。



僕の中にも残る……彼女の香り。



『まとまったお金が必要だったようで……』


『楽しい日々でした……』



どうして僕は、ここにいるのだろう。

もう『ゲーム』も終わり、何も先など見えないのに……





どうして僕が、ここにいるのだろう。





彼女は今、何をしているのか。

それを調べられない、理解できないのに、彼女の面影の残る場所にいるのは、

僕が想像した以上に、辛いことだった。




【19-1】

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