27 Thanks 【感謝】 【27-5】

【27-5】


「お母さんが、お姉さんを亡くしたショックで、相馬さんのことをずっと、
智美、智美って呼んでいたって」


郁美という名前があるのに、呼んでもらえないという状況を、

黙って受け入れていた日。


「あ……えっと……背がとっても高い」

「そう、すごくガッチリしていて」

「あぁ……思い出しました。そう、『東城大学』医学部を出て、確か……
そう、外国に行かれると。あぁ……ドイツだったのですか」

「その先生が今度、『東城大学』の系列になる『虹ヶ丘病院』に赴任されたんだ」


たったひとり残された相馬さんのことを、大平先生も、とても気にされていた。


「落ち着いたら一度、会いに行かないか。岩佐先生の娘さんがと、
とっても気にされていたから」

「……はい」


相馬智美ではなく、相馬郁美。

そう、僕の目の前にいるのは、岩佐教授の血をひく『相馬郁美』さん。



『智美……智美』



「これからは……僕が」

「エ……」

「これからは僕が、君の名前を呼ぶから」


誰かの代わりではなく、塾の事務員さんでもなく……


「郁美って……そう呼ぶから」


大切な人として、これから先もずっと、名前を呼び続ける。


「……はい」


郁美ははにかんだ笑顔を見せた後、目に涙をいっぱい溜めていた。





「何もないんですか?」

「うん」


リビングについているキッチン。

何か簡単なものを作ろうという郁美と、今日は食べに行こうと主張する僕。


「このフライパンと、あと、包丁と……」


フライパンも、たまに、本当に年に数回、目玉焼きを作るために存在し、

包丁に関しては、ほとんど酒のつまみを切るくらいしか使ったことがない。


「やかん?」


郁美は空っぽのシステムキッチンを見ながら、

納得するように頷いた。





「アレンが?」

「そう、あいつ薬剤師になりたいんだって」

「へぇ……そんな目標を口にするようになったの」

「うん、信じられないだろ」


郁美はそうだと、何度か頷いた。

僕よりアレンのことを昔から知っているからこそ、その変わり様に驚くのだろう。


「そう、郁美と一度東京で話しただろ。その後、俊太が塾へ来たんだ。
僕が話したときには、とっても笑顔で、
なんだかすっかり振り切ったように見えたんだけど、
椛島教室長が、『親に怒ったのか』って聞いたら、あいつ、我慢していた涙が、
止まらないくらいあふれてきてさ」


俊太。

あれからどうしているだろう。


「郁美の言った通りだった。我慢していたんだな、あいつ」

「……はい」


塾のこと、郁美が過ごしたわさび田のこと、

以前、僕にわさびを売ってくれた安居さんは、

一番長く『わさび田』に勤めているので、昔も世話になっていたことなど、

それからはしばらく話が続く。

食事を終えて、マンションに戻るまで、郁美は楽しそうに話し続けた。


「うん……」

「水温調整もあって、思っているよりも大変なの」

「へぇ……」


ずっと押し込めていた感情や、話そうとしなかったことも、

やっと解き放つ気持ちになってくれたのだと思うと、

このまま夜が明けるまで、聞き続けてもいいと思えるくらい、幸せな時間だった。





僕達は、部屋に戻ると、自然に語らない時間を選んでいた。

触れることも、重なることも、静かな時の中に身をゆだねることもまた……

『幸せ』を感じられるものだと、知っているから。

どれほど会いたくて、どれだけこうした日々を待ち望んだのか、

僕は、精一杯伝えるために、ゆっくりと郁美の気持ちをほぐしていく。

呼吸の中に漏れ聞こえてくる吐息の甘さに、焦る気持ちを抑えながら、

もっと心を開いて欲しいと願い、その唇にキスをする。

女性の身体は、これだけ柔らかかっただろうか。

そのぬくもりや感触に、触れ合う場所の熱が、自分でもわかるくらい、

上昇し続ける。

僕の目を見ていた郁美の目が、その時を待つように、一度閉じられる。

僕は、これからどんなことがあっても、君を守るのだという思いを込めて、

彼女の首に手を回しながら、さらに深く身を沈めた。


郁美の身体が、僕を受け止め続ける。

そして、今、この時間が愛しいのだとわかるように、

彼女の表情が、優しく温かいものになっていく。

溶け合うような時間の中で、僕は初めて……



本当に愛しあえているのだと、実感できた。



言葉ではなく、唇から、身体から伝わる愛情を互いに受け止め続け、

長い夜は何度も形を変えて続いた。




【27-6】

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