「今日の用件は、高橋先生から全て君に語ってもらおうと思う。
僕も断片的にしか知らない話だ」
「はい」
高橋教授が、全てを知っているということ……
「宇野」
「はい」
「君が学生時代、岩佐教授と私が、それなりに親しくしていたことは知っているね」
「はい。教授室で、何度かお会いした記憶が……」
「あぁ……岩佐教授は、本当に人望のある方で、
人との付き合いも分け隔てのない方だった。
私は『東城大学』出身ではないし、だから、その力関係の中に割り込むこともなかった。
まぁ、色々我を張る人が多かったからなぁ、それを横で見ているだけだったよ」
高橋教授は、医者にとって一番必要なことは、医療の追求であって、
権力の追求ではないと、そう強く言いきり僕を見る。
「はい」
「岩佐教授も、全く同じ考えをお持ちの方だった。生物の研究から、
人の成長、そして農作物の成長、遺伝子の研究、将来この日本を支えていく人たちに、
今を生きる身として、何が遺せるのか、いつもそれを考えておられた」
「はい」
『宇野……いい研究だ、諦めるな』
岩佐教授。
「今から10年ほど前、岩佐教授は理学部で毎日君たちのような未来ある若者を、
精一杯指導されていた。同じような思いを、さらに先へつなげてもらうために」
「はい」
僕も、そして尚吾も、みんな岩佐教授を尊敬し、後を追っていこうと、
そう思っていた日々。
「しかし、岩佐教授は、ご自分の体が、病に勝てる状態ではないことに、
そのときすでに気付かれていた。大平先生に聞いたところ、
君もすでに全てを知っているということだったが……」
高橋教授が大平先生の方を見る。
大平先生は大丈夫ですと頷いた。
「岩佐教授には、二人の娘さんがいた。その片方のお嬢さんの容態が、
その時、いいものではなかったからね」
「はい。その話しは知っています」
自分の体もよくない状態であることを知りながら、娘のことに全力を注いだ日々。
「おそらく、岩佐教授は、もう時間がないのだと悟っていたのだろう。
私にこう提案してきた。今から、『遺書』を遺すのだと」
「遺書……」
「あぁ……家族に財産を残すというものではなく、君のような若者に、
未来を遺すのだと……」
『未来を遺す』
「自分が亡くなったとき、おそらく柿沼教授が君の実験を邪魔し、
最悪の場合、消滅してしまうのではないかということも、岩佐教授は考えておられた」
大学院での生活。
あれは、岩佐教授がぜひにと進めたので、僕が選んだ道だった。
途中で亡くなってしまい、そこから翻弄された日々に、
恨んだことがなかったとは言えない。
「この『遺書』の存在が柿沼教授に知れたら、おそらく邪魔をされる。
だからこそ岩佐教授は、心から信頼できると言ってくれた私と、
この渡瀬弁護士の前で、君への『遺書』を書いた」
『僕への遺書』
「本物は、ここにある。だが、片方の遺書は今、開けられない。
その事情は後々語る。とりあえず、君宛に遺されたものを見せようと思うが、
どうだ……大丈夫か」
僕は『はい』と迷うことなく頷いた。
ここへ来る時点で、覚悟を決めてきた。
何があっても、しっかり受け止めること。
「君への『遺書』を読めば、もうひとつの方がどういうものなのか、
それもわかるようになっている」
高橋教授から受け取ったのは、しっかりとした封筒に刻印の残されたものだった。
表書きには、確かに『宇野柾様』と僕の名前が書かれている。
「この『遺書』は、岩佐教授が、
私と高橋教授がいる前でしっかりと封筒に収められました。
それを証明するために、高橋教授の直筆のサインも、残してあります」
手にとって見たものの、10年もの月日がここに存在するのかと思うと、
ハサミがうまく持てなかった。今の僕に、この封筒を開ける資格があるのだろうかと、
思い出す。
「大平先生」
「何?」
「これは、本当に僕が開けてもいいものなのでしょうか。岩佐教授が亡くなられてから、
僕は……」
柿沼に邪魔をされたから、会社の仕組みが悪いからと、
自分勝手な日々を積み重ねてきた。その僕が、岩佐教授の思いを、
受け止められるのだろうか。
「宇野さんに宛てたものだ。君の今の悩みもきっと、
先生は予測されていると、思うけれど……」
「予測?」
「あぁ、そうかもしれない。宇野が華々しく研究者としての道を歩めていたら、
後で笑い話にして欲しいと、そう言われていたからね」
僕が研究者としての地位を得て、満足した日々を送っていたとしたら、
読めなかったかも知れないもの。
「わかりました、読みます」
亡くなった人から、何も得るものなどないと思っていた。
でも、今、時を越えた、『僕の恩師』の声。
宇野、この手紙を君が読んでいるのだとしたら、
私は君に謝罪をしないとならないだろう。
君には、この世の中を動かす才能があると、そう思い、
就職に迷う気持ちを、大学院へと向かわせたのは私だからだ。
今でもそれは間違っていないと思っているし、君の研究は、必ず数年後に、
この世の中で必要とされているものだと、信じている。
岩佐教授の直筆。
懐かしい文字と、3つ折の便箋。
10年という時を越えた思いが、今、僕の目の前に広がった。
【28-5】
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28 Testament 【遺言】 【28-4】
【28-4】
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