12 信頼が崩れだすとき 【12-1】

12 信頼が崩れだすとき
【12-1】

園児の親に呼ばれた陽菜は、話しが『舞ちゃん』のことだとわかり、

『何かありましたか』と尋ねた。


「舞ちゃん、夜に泣いてばかりいるそうですよ」


舞ちゃんが住んでいるのは、『新町幼稚園』近くの市営住宅のため、

上下左右のどこか近くに、同じ幼稚園や小学校に通う家が存在した。

夫婦ケンカばかりしている家とか、騒音がひどい家とか、

そういった話しは、あちこちから出てくるらしい。


「うちの娘、前は舞ちゃんとよく遊んでいたのに、近頃あまり遊ばないから、
ケンカでもしたのって聞いたら、そうじゃないって言いまして」

「はい。とくにケンカをしている様子はないと思いますけれど」

「舞ちゃん、ここのところ幼稚園から戻ると家にいるらしいです。
外にも遊びに出ないで、じっと家に……。きっと、お父さんが恋しいのだと……」


その父兄は、さらに陽菜に近付くと、舞ちゃんのお父さんが、

1ヶ月ほど前に、家を出てしまったのだと、そう話し出した。

同じ会社に勤める女性といつの間にか恋仲になり、妻と言いあいをした挙句、

家族は団地に残し、出て行ったのだという。


「奥さん、身重なんですよ……ひどくないですか」


陽菜は、初めて聞く話に驚きながらも、あまりのめりこむように聞くと、

よくないと思い、少し注意して様子を見ますからと、答えていく。


「えぇ、そうしてあげてくださいね。子供の気持ち、考えてあげないと」


その父兄は、これからお姉ちゃんの習い事がありますからと、

妹の手を引き、幼稚園を去っていく。

陽菜は園児にさようならと挨拶しながら、舞ちゃんのことを考えた。

確かに、春に行われた遠足では、かわいらしく縁取りされたようなお弁当を持ち、

お菓子も本人がお母さんと買いに行ったと、嬉しそうに話してくれた。

しかし、ここのところのお弁当は、あまり飾りもなく、

どちらかというとそっけないものに変わっている。

今日も、以前のような色合いは確かになかった。

弟か妹が出来るのだという話しは、以前、聞いていたため、

母親も、つわりなどで体調の悪い日もあるだろうからと、

あまり深く考えていなかったが、そういった事情があったのかと、複雑な気持ちになる。


「あ、はるな先生。盆踊りのうちわの飾り、作りましょ」

「はい、今行きます」


陽菜は気持ちを切り替えると、少し小走りで職員室に戻った。





営業に出た司は、文乃に見合い話が出てきたということを聞いてから、

仕事の途中で何度も『アプリコット』の前に立った。

4階建ての建物と、それに隣接する宿舎。

文乃はこの中を行ったりきたりしながら、過ごしているのだろうと思うが、

顔を見ることは、偶然でも一度もなかった。

あの日、後退しそうになる関係に焦りを覚え、自分勝手に思いを告げた司の前から、

文乃は逃げるように消えた。

親友である大輔の姉に、失礼な態度を取ってしまったという思いが、

事実を知られたときに、全てが壊れてしまうことを恐れることにつながり、

司は長い間、事実を語れずに生きてきた。

大輔はいまだに、なぜ文乃が急にここへ入ってしまったのか、その理由をわからず、

さらに、自分が姉を頼りすぎてしまったからではないかと、そう思い始めている。

祥太郎の言うとおり、文乃であればいずれ良縁が舞い込み、

本当に自分の前から消えてしまうことになるだろう。

だとしたら、罵られても、軽蔑されても、あの日の出来事を大輔に話し、

最後のチャンスをもらうべきではないかと、そう思い始める。

電信柱の影に立っていると、笑い声が聞こえたため、司は振り返る。


「何を言うのよ、信也。失礼でしょう」

「いやいや、母さんの真実を話しているだけだよ」


車椅子に乗った女性を、一人の男性が押している。

数秒後には曲がり角から、『アプリコット』のポロシャツを着た文乃が姿を見せた。

思いがけないタイミングで、文乃が現れてしまい、

司は慌てて、隣の建物の入り口前に身を隠す。


「すみません、車椅子代わります」

「いえ、いいですよ、私が押します。白井さん、靴の紐は大丈夫ですか」

「はい。しっかりと結んでいなくて。今度はきつめに縛りましたから」

「もうすぐじゃないですか、俺が押しますから」


文乃の声と、男の声が、親しげに交差した。

司は、声だけを耳で捕らえ、その場に立ち続ける。


「白井さん、男の子は本当につまらないわよ。私は女の子がいないでしょ。
だから長男のお嫁さんがかわいくて」

「はい……」


司が、しっかりと文乃の姿を見るのは、いや、声を聞くことも、あの日以来だった。

絶対に見つからないように、慎重に視線を向けると、

文乃の髪の毛は昔と同じように一つに束ねられているのがわかる。

気付かれないように呼吸もゆっくりと少しずつ吐き出し、出来る限り気配を消した。

近付く距離に、しっかり隠れなければと思うのに、

もう少し近くで姿を見たいという気持ちが勝ってしまい、目を文乃に向ける。


「ほら、母さん。もう『アプリコット』だ」

「あら、あっという間ね」

「金田さん、すごい。今日は30分も散歩しました」

「あら、だって私は楽だもの。こうして座っているだけでしょ」


『金田』という名字に、司の鼓動が一気に速まった。

祥太郎から聞いた名前は、確かこの名字だった。

一緒に歩く男性が、もしかしたら見合いの相手なのかと思い、

もう一度姿を見ようと顔を少し出すが、

さすがにもし、この状態を文乃に気付かれたらと思うと、それ以上近付く勇気が出ない。


「母さん、これからは暑さがきつくなるから、
少し散歩は控えたほうがいいんじゃないか」

「そうね……」

「白井さんが車椅子を押していくのは大変だ。俺が来た時に付き合うからさ」


近付いた声が、まただんだんと遠くなっていく。

司はもう一度、ゆっくりと顔を外に出し、文乃の後姿を見る。


「私は平気ですよ、金田さんがご希望なら、お散歩くらい」

「いえ、いいんですよ」


隣にいる男性は、明らかに自分より年が上に見えた。

態度も紳士的で、文乃に対しても優しい視線と言葉を送っている。

大輔は、文乃が見合いに対して乗り気ではないと言っていた。

今も、入居者の家族だから、親しげに接しているのだろうが、

これだけ距離を近づけても、

司は気配を消すことしか出来ない自分の立場に、あらためて気付く。



『司君……』



司は、『アプリコット』に文乃が入ったことを確認すると、

文乃たちが残した空気を吸っているのがイヤで、そのまま駅に向かって歩き出した。



【12-2】

それぞれの恋の色を塗っていくと、そこに見える『Color』は……
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