29 忘れずに生きていくこと 【29-5】

【29-5】

週末の土曜日。

休みのサラリーマンたちは多いが、陽菜にとっては月に2回ある通園日のため、

今日も朝から子供たちの賑やかな声の中にいた。


「ほら、そっちには行きません」


発表会を前にし、小道具などが入れてあることもあって、立ち入り禁止の場所もあり、

先生たちは、普段以上に神経を使っていた。

残り1週間となり、練習も本番と同じようなものが増えていく。

最後の大きなイベントとなる年長クラスの先生たちは、まだ本番ではないのに、

その日を思い、涙ぐみながら練習を続けていた。



『ほら、みんな。しっかりとこっちを向いて』



発表会に『フォトカチャ』からカメラマンが来てくれることにはなっているが、

大輔ではない。そんな当たり前のことも、十分わかっているのに、

陽菜は、心のどこか片隅で、その姿を想像してしまう。

『大輔の手で作られた四角のファインダー』。

陽菜は、自分に笑顔を向けてくれた大輔のことを思い出しながら、

精一杯当日に向けて、頑張った。





「文乃さん」


陽菜が発表会の練習を続けている土曜日。

司は文乃と待ち合わせをして、間取りの紙を寄こした不動産屋に入った。

担当者として出てきた、メガネを少しずらして紙を見る年配の男性は、

司と文乃を夫婦だと思い込み、子供が生まれると少し狭いですよと、

聞いてもいない情報を披露する。

それでも、候補を3つに絞り、二人は彼の運転する不動産屋の車に乗り、

全ての場所を見て回る。

マンション全体を見ると、だいたいどんな人たちが暮らしているのか見てわかると、

不動産屋は郵便受けを指差した。


「この大家さんは、しっかり管理をしてくれますよ。いらないチラシなど、
放りっぱなしにはしませんからね」


共有部分がどんな状態なのか、担当者はベテランらしく情報を入れてくれた。

文乃は気になったことをメモに取り、しっかりと質問する。

司は、少し後ろからその様子を見つめた。


「駅からの距離は、2番目が一番近かったね」

「うん……でも、道が結構狭くて夜は暗そう」

「あぁ……そうか」


司は、今は昼間だけれど、確かに夜の雰囲気は違うだろうなと納得する。

3つとも築年数はそれほど変わらない。

文乃は3つの中から、2つの部屋の間取りの紙を見比べる。


「司君、どう思う?」

「どっちもいいと思う。使いやすそうだし、店も近いし。
値段も予定内で収まるし。でも……」

「でも?」


司は、文乃が左手に持った間取りを指差し、

この物件なら、この駅どまりの電車があると話す。


「そうだった?」

「そう。急行が止まる駅ではないけれど、この駅の奥に車庫があるから、
この駅始発の電車があるはずなんだ。朝も時間があえば始発で座れるし、
帰りだって、その先まで行く電車と、乗客の数が変わってくるだろう」


司の意見に、運転をしていた不動産屋の社員も、確かにそうですねと後押しした。

文乃は、間取りのそばについていた地図をもう一度確認する。

確かに、駅の横には少し広い土地があり、ホームも他の駅より多い。


「始発か……それは確かに魅力的」

「うん」


文乃は、司の意見を取り入れると、その物件に決めますと話し、

お店に戻り、早速契約を済ませることにした。

司は文乃の隣に座り、また一歩前進したことにほっと一安心する。


「あれ……ご夫婦じゃないんですか」


メガネをかけた不動産屋の男性は、すっかり勘違いしていましたと笑い、

ご結婚して、もう少し広い部屋に住みたくなったら、その時にもぜひうちでと、

最後に営業トークをしっかり入れてきた。



「なんだか楽しい人だったね」

「そうね。とぼけていたけれど、人当たりがいいから、あの人の営業成績は高いと思う」

「そういうもの?」

「そういうもの」


司と文乃は店を出たあと、電車に乗った。

今日という日は、文乃の部屋を決める日だと、祥太郎には説明したが、

二人にとって、それだけではない日だった。

二人が乗った電車が目指すのは、司が暮らしている町の駅で、

揃って降りると、駅前のスーパーに立ち寄っていく。


「何がいい?」

「なんでもいいよ」


司は、文乃が作ってくれるものならば、なんでも幸せだという意味を込めてそう言った。

しかし、文乃は不満そうな顔をする。


「男の人ってそう言ったほうがいいと思っているのかしら」

「ん?」


文乃は、『これが食べたい』と決めてくれた方が楽なのにと、笑ってみせる。

文乃の押しているカートの中に、野菜や肉がそれなりに入っていく。

今日は、一緒に食事をしようと、言い出したのは文乃の方だった。

過去のことがあり、司からは言い出しにくいだろうと思ってのことだったが、

あらためて『週末は休みを取らせてもらった』と言われたとき、

司の鼓動は、初めて恋をする学生のように高鳴った。


「ねぇ、これも入れていい?」

「パン? 美味しいの?」

「うん。少しトースターで焼くと、本当にうまいんだ」

「そう」


司はカートの中にいくつかのパンを入れる。

文乃と二人、当たり前の幸せを味わうように、売り場をゆっくりと回った。



【29-6】

それぞれの恋の色を塗っていくと、そこに見える『Color』は……
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