37 それぞれに芽吹く思い 【37-1】

37 それぞれに芽吹く思い
【37-1】

『陽菜』

懐かしい呼び方と声に、家路に向かう人たちの中、陽菜は一人足が止まった。

相手が誰なのかわかったというだけで、そこまで冷静だった感情の波に、

小さなうねりが見えたが、その不安定さは数秒で収まり、また冷静さが戻ってくる。

しかし、『こんばんは』や『お久しぶりですね』などと返すのは、

おかしな気がしてしまう。


『ごめん、こんなふうに電話をしてしまって』


電話の相手は、『青葉瞬』だった。

陽菜なりに、善と悪を理解しながら、それでもこの人と悩みながら選ぼうと思った道を、

一気に行き止まりにしてしまった男。


「番号、変えたのですね」


大学時代から、瞬の電話番号はずっと陽菜の一番最初をしめていた。

別れた後は、気持ちの整理をつけようと消去したものの、

何度も見ていたために、覚えている数字は頭から抜けていない。

そのため、何度かかかってきた無言の電話が、瞬だとは思いもしなかった。


『あぁ……色々と変わったんだ』


陽菜は、次の言葉をどう出そうか迷っていた。

『何が』と聞けば、関わりたくないと思っている瞬との距離を、また縮めることになる。

かといって、無言のままこの場に立っているのも、また得策ではない気がした。


「そうですか……」


陽菜は、当たり障りのない言葉を押し出した。

そして、今、向かう場所があるため、電話を続けているわけにはいかないと、

話を終わらせようとする。


『一度だけ……会ってくれないか』


瞬は、今さらではあるけれど、陽菜を傷つけてしまったことを後悔し、

謝罪をしたいと思っていると、言葉を並べた。

陽菜は、『謝罪は結構です』と、出来るだけ冷静に話す。


『変わったと話したよね、今』


瞬は、前回の自分とは違うのだと、電話を切られまいと言葉を続けてくる。


『俺は騙されていたんだ。今更どうしようもないことだけれど、でも、
陽菜にだけは、わかってほしいから……』


瞬は、妻と暮らしている家を出たと、そう語る。


『陽菜……』

「青葉先輩」

『何?』


陽菜は歩く人の邪魔にならないよう、歩道の奥に入る。


「先輩の生き方がどう変わっても、どこかにウソがあっても、
それを私は今、知りたいとは思いません。私の……」


陽菜の、輝いていた大学時代の思い出。

真帆や有紗との笑い声と一緒に、いつもそばにいてくれた瞬の眼差しがあった。


「私の思い出を、もう……これ以上汚さないでください」


陽菜はそういうと、『さようなら』という言葉を押し出し、電話を切った。

声のトーンからしても、瞬の身に何かが起きたことは間違いなく思えた。

しかし、それを今更知ることに、意味があるとは思えなかった。

あの日、自分ではなく、妻との生活を選んだのは、瞬自身なのだから。

陽菜は、あらためて部屋への道を歩き出すと、冬空に光る月を見た。





灰田がモデルの恨みをかい、わき腹を刺されたという話は、

緘口令が敷かれたため、社内で大きな話題になることはなかった。

有紗はあらためて上司に『退職願』を提出する。


「そろそろ2月ですので、3月いっぱいでと思っています」


そう言い頭を下げると、またいつもの仕事に戻っていく。

灰田の様子自体は、そばにいる水島から話を聞いていた。

病院に急患で運ばれた夜、結局、妻も愛人である間宮あかりも、

姿を見せることはなかった。

次の日、鉢合わせをしないよう気をつかったのか、妻は病院と連絡を取り、

完全看護となるようなスタッフをつけて欲しいとお願いし、

午後には、間宮あかりが姿を見せたが、状況を知るとまた、

仕事に向かったという。

灰田の傷はそれほど深くなく、致命傷にはならなかったが、

記事から真実を探ろうとしている雑誌や、新聞の記者から狙われているため、

病室から一歩も出ない生活を続けている。

有紗は、灰田に一番近いはずの二人が、

あまりにもあっさりとしている対応をしていることを知り、

今まで感じていた怒りではなく、どこか哀れささえ持ってしまう。

その日も仕事を終えると、家にまっすぐ帰る気持ちにはなれずに、

有紗は、本屋やレンタルショップなど、

出来るだけ寄り道できる場所を探しながら、歩いていた。





「タカちゃん、伝票どこだっけ」


その日の夕方、『桜場ふとん店』で短期バイトを始めた祥太郎は、

納品を済ませ店に戻った。

店主である先輩の貴之に声をかけるが、返事がない。

いつもなら、どこに行っているとか、何時に戻るとか、必ずメモがあるのに、

その日は何も机になかった。


「じゃ、これは何かに挟んでおくか」


祥太郎も商売をしているため、もらってきた客のサインが重要だということはわかる。

紙を無くさないように透明のファイルに入れていると、奥から人の気配がした。

祥太郎は誰だろうと中をのぞく。


「祥太郎……祥太郎の声だったんだ」

「あ……朋恵」


祥太郎の目の前に現れたのは、この家の娘であり同級生の朋恵だった。



【37-2】

それぞれの恋の色を塗っていくと、そこに見える『Color』は……
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