1 玉子さんの恋 【1-4】

「ただいま」

「おかえり」


家に戻ると、祖母の夏子と母の美佐が、せんべいを食べながら、何やら話していた。

美佐は、部屋に上がろうとしたあずさを呼びとめ、こっちへ来るようにと手招きする。


「何?」

「何じゃないわよ、あずさ、あんた東京に転勤だって?」

「……は?」


あずさは、二人から出てきた話に、口が開きっぱなしになる。

階段に向けていた足を、茶の間に向け真ん中に座った。


「どうして知っているの? だって、転勤を言われたの、今朝なのに」


あずさは、いくら小さな町だとは言え、どこから話が入ったのかと、不思議に思った。


「驚いたのはこっちだよ、ねぇ、美佐」

「そうよ、そうそう」

「何?」

「今、さっき、相原さんが立ち寄ってくれたのよここへ」

「相原さん? あ、もしかして」

「そうそう、玉子さんの……」


夏子は、相原さんが東京に戻る前、ここに立ち寄り、

お土産をくれたあと、あずさのことを話したと言いだした。


「私のこと?」

「そう。それでこれを置いていったの」

「何?」


庄吉が置いていったのは、1枚の名刺だった。



『株式会社BEANS 会長 相原庄吉』



「庄吉さんの名刺?」

「そう。ねぇ、裏、裏を見て」

「裏?」


あずさが名刺を裏にすると、東京の住所が庄吉の字で書いてあった。

『東青山』。この土地が、どういう場所なのかは、

あまり東京を知らない人でも、よくわかるくらい有名な場所だ。

流行の先端を行く店が並び、その流れに敏感な若者が集まる町であり、

大通りから1歩入ると、高級な住宅が立ち並ぶ。


「どういうこと?」

「あずさが、東京に勤めることになったのを施設で聞いたって、ねぇ……」

「そう、それならばぜひ、うちに下宿してくれって」

「下宿?」


『東青山』の住所とは、庄吉の家の住所だった。

とはいっても、庄吉自身は『青の家』という

『橙の家』と同じ系列の施設に今は住んでいて、本家には長男一家が生活している。


「相原さんには息子さんがいるのよ、えっとお名前なんだっけね」

「確か……武彦さんって言ったはず」

「そうそう、武彦さんだ、武彦さん。相原さんの家は、
結婚してからお子さんが長く出来なかったのよね。
生まれたときには、玉子さんにも手紙をくれて……。
で、今はその息子さんが社長でしょ。武彦さんにもお子さんがいたはずよね」

「そうね、確か……聞いた気がする」



『家賃、3食つき』



「ねぇ、この『家賃、3食つき』って何?」


あずさは、住所の下に書かれた文字を見る。


「だから、家賃もいらないし、食事代もいらないって」


夏子は、その文字は自分が書いたのだと言いながら、新しいせんべいを1枚取り、

両手で半分に割ると、さすが大手企業の会長だと感心していた。

美佐は急須にお湯を入れ、夏子の湯のみを自分の前に持ってくる。

あずさは、二人の動じない態度に、渡された名刺をテーブルに置く。


「これは冗談でしょ」

「そう、お母さんもそう言ったわよ。それはあまりにもじゃないですかって。
何か裏がありそうでしょう」

「うん」


美佐は、急須でそれぞれの湯飲みに、お茶を足していく。

コポコポという音が聞こえ、お茶の香りが広がっていく。


「美佐、裏だなんて失礼だよ。庄吉さんはそういう人じゃないんだって。
私は玉子さんとの関係をずっと見てきましたから」


夏子は経済的に余裕があるから、考えることも私たちの1つも2つも上をいくのだと、

自分の手で高い場所を示そうとする。美佐は、そういうものなのかと言いながら、

入れたお茶を飲み始めた。あずさは、名刺の裏をもう一度見る。

あまりの条件に、実は相原家には、何かおかしなことでもあるのだろうかと考えた。


「いや……うん、これはいいよ。家賃も食費もいらないなんて、絶対におかしい。
東京で住むところくらい、自分で探す」


あずさは、今からこの名刺の場所に電話をして、

丁寧にお断りをしようと、階段を上がりだす。


「あずさ、本当に断るの?」

「だって、おかしいでしょ。気持ちが……」


『気持ちが悪い』と言おうとしたあずさの口は、そのまま閉じられた。

玉子の淡い恋の相手であり、ほんの少しだけれど、

実際の庄吉を見たイメージからすると、本当に紳士的で品のある姿だったからだ。

庄吉を否定することは、玉子の気持ちを否定してしまう気がして黙ってしまう。


「まぁ、行くのはあずさだからさ、嫌なら嫌でいいと思う。お母さんも謝るから」


美佐はそういうと、せんべいを半分に割る。


「あら、もったいないよ東京に行くっていっても、どれくらいかわからないし。
また戻ることになったら、アパートだのなんだのって、面倒でしょう。
相原さんね、うちにしてみたら、あずさの生活費くらい、
どうにでもなりますからって、そう言ってたし……あの経済力だよ、
確かにそうだろうしね」


夏子は湯飲みを右手で持ったまま、猫舌でも飲めるように何度も息を吹きかけていく。


「お金がどうのこうのより、大切なのは『風』だって、そう言っていたよ」

「風?」


あらためて階段を数段上がった、あずさの足が止まる。


「そう、風。とにかく生活してみて、どうしても耐えられなくなったら、
きちんと相原さんが別の場所を紹介してくれるって。だから、ぜひって。
あずさがね、仕事から逃げるようになるのはイヤだって、そう言っていたのを、
相原さん、気に入ってくれたらしいのよ」



『ありがとうございます。でも、勤務先が変わるからって、
自分から逃げたような選択をするのは、嫌なので、とりあえず本部に行ってみます』



「あ……そういえば、言った」



東京に行きたいわけではないが、決まった以上、

逃げはしないと塚田に語ったことを思い出す。


「どうする? あずさ。断る?」


あずさは、玉子の手に触れ、無言で立ち去った庄吉の姿を思い返した。

高校の創立記念で、指揮者として立った自分を、すぐに玉子のひ孫だと見抜いた庄吉が、

どういう理由で自分を必要としているのか、

あずさは、『風』という言葉の意味を、知りたいと考え始める。


「……電話する」

「辞めるの?」

「ううん……お願いしてみる」


あずさは、仕事に対して前向きになった気持ちと同じように、

玉子に精一杯尽くしてくれている庄吉の思いを受け止めてみようと、

会社に東京勤務を了承するという返事を出した。



【1-5】



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