8 奇跡の可能性 【8-1】

『三国屋』を出たあずさの手には、

たった今、購入したスーツが1着入っている、四角いケースが握られている。

後部座席に座り、ふくれっ面のあずさの顔が、バックミラーに映った。


「どうして後ろに座った」


岳はミラーを見ながら、聞いていく。


「そういう気分だからです」


あずさは答えると、雨の降り出した外の景色を見た。

言いあいになり、最初は岳のカードを出されたが、

あずさが絶対にそれは嫌だと譲らずに、店員にカードを戻すように伝え、

結局、自分で支払うことになった。

とりあえずカード払いなので、すぐ現金が消えてしまうわけではないが、

予定外の出費に、ただ、ため息ばかりが出ていってしまう。


「人がカードを出したのに、強情だな、君は」

「買っていただく理由がありません」

「理由はあった」


岳の言葉に、あずさは『どういう意味ですか』身を乗り出していく。


「理由はあったとは……」

「宮崎さんが、言いたいことを言うだけで、冷静に人の話を聞こうとしないから、
説明する隙間がなかった」


岳はそういうと、サイドブレーキを解除し、走り出す。


「隙間?」

「この前、見舞いに行った『ドン』が退院して、
1週間後のパーティーに、顔を出すことがわかった」


岳の説明に、あずさは点になった目を、戻せなくなる。


「今の説明の中に、理由が見つかりませんが」

「どうしてわからない」


あずさは『肩もみ』として、そこに行くということかと聞いてみる。


「そうだ、それ以外の何もないけれど」


岳の当然というようなセリフに、あずさは自分の買ったスーツの値段を考える。


「あの……『肩もみ』に対しての出費としては……」

「『ドン』の名前は、『瀧本準(じゅん)』といって、
建設関係の人脈がとにかくある男だ。元は東京の地主だけれど、
その土地が、どんどん開発に利用されたことで、力を伸ばした。
その瀧本の長女がデザイナーとして就職したのが、今、宮崎さんが買ったブランド、
『リクチュール』になる」


『リクチュール』のスーツを女性が着ているだけで、『ドン』の機嫌がいいのだと、

岳は説明を付け足してくれる。

あずさは『リクチュール』のスーツに憧れている女性は確かに多いと、

握られているケースを見た。


「そういうことですか」

「そういうことだ。出費は確かにあるけれど、それが数倍になって戻る可能性が高い。
だから結果的には得になる。あくまでも『肩もみ』として同行してもらうための出費だ。
後から、宮崎さんの口座に、スーツ代金は振り込むようにするよ。
雑誌やジュースを買うのに、考えながら店の前をウロウロするようでは困る」


岳はそれだけを話すと、そこからは何も言わずに走り続けた。

あずさは、『三国屋』と書かれた箱を、もう一度見る。


「そういう理由があってのことなら、お店に行く前に、
話しておいてくれたらよかったじゃないですか。
それなら、売り場で言い合うこともなかったのに」


あずさは、そうしていたら慌てなくても済んだと、小さくつぶやく。


「仕事用の服を1着買うと言って、大騒ぎをする女性がいるとは、
正直、想像もしていなかったんだ」


岳はそういうと、さらにアクセルを踏み込んでいく。

20分ほどすると、『BEANS』の本社ビルが見え始めた。

雨はますます降り方を強くする。

あずさは最初にされた『パンチョ・ボンバー』の話と、

今聞かされた『ドン』の話を、それぞれ思い出していく。

岳の見ているもの、見ようとしているものの奥に、

いくつもいくつも、色々なものが重なる。そんな複雑な迷路が頭に浮かんできた。


「岳さんは、いつもそんなふうに複雑な考え事ばかりしているんですね。
ただ物事を右や左に動かすのではなくて」


あずさは、肩こりが人よりも強烈なのは、

そうやって自分を追い込むからではないかと、言ってみる。


「追い込む?」

「はい」

「今の話のどこか追い込んでいるのかな。
どうなるのかわからない企画書をあれこれ練って、
採用してもらえるのかわからないくらいなら、相手の確実に喜ぶポイントを見抜いて、
前進した方がいい。それは当たり前のことだと思うけれど」


岳は、『アカデミックスポーツ』の人たちも、3ヶ月の中で悩み続けるより、

『BEANS』が提案したことに従い、次の場所を探す方が懸命だと言い始める。


「払いの悪い他の会社のことを必死に考え、期限を延ばそうなんて面倒なだけだろう。
自分たちだけなら、背負い込まなくてもスタートが切れる」


岳はそういうと、『BEANS』の駐車場に入っていく。


「面倒ですか」

「あぁ……柴田社長は、今伸び悩んでいる会社も、これからなんて言ったが、
俺から見たら……」

「岳さんは……『奇跡』って信じないのですか?」


岳の車は、いつもの駐車場まで到着し、停車するためにバックし始める。


「今、『奇跡』って言ったのか」

「はい。そうです。『奇跡』です」


あずさはそういうと、

後ろを見ながら駐車しようとする岳の視線に入り込まないよう、頭を少し下げる。


「確かに、『パンチョ』のことも、今、みんなが頑張って探している『居残り』の方法も、
最終的には無駄になるかもしれません。でも……最短距離だけが、
いい結果を生み出すとも……」

「それは、宮崎さんと俺の立場の……」

「もし……」


岳のセリフが途中なのにも関わらず、あずさは口を挟む。

その勢いなのか少し小さくした体も、元に戻った。


「もしも、自分の家族が不治の病だと、普通に考えたら無理だろうと言われたら、
岳さんは今のように、効率だの、無駄のないようにだのって、割り切れますか」


あずさはそういうと、真剣な顔をする。

岳は停車位置を決めると、サイドブレーキを引く。


「最終的には無駄になったとしても、その時精一杯考えて、悩んで、
導き出そうとすることで、人は『納得』するのだと思います。
私は、たとえ無駄でも、もがいてもがいて、それで最終日を迎えます」


あずさは車が止まったとわかり、ドアを開けて出ようとする。

しかし、岳の方でロックされているため、扉は動かない。


「あれ?」

「そういう経験があるのか……」


あずさはあらためて振り向いた岳の表情が、

今までとは違い、とても寂しそうに見えてしまう。

思いがけない状況に、『開けて欲しい』という言葉がすぐに出なかった。



【8-2】



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