8 奇跡の可能性 【8-5】

リビングからは、東子のリクエストなのか、また別の曲が聴こえ始めた。

その音を背中に受けながら部屋に戻った岳は、

クローゼットの一番奥にしまったケースを見る。

しっかりとした、『ブラウン』の木彫りがされたケースに収められているのは、

岳が昔、吹いたことのある『クラリネット』だった。



『岳は男の子だから、お母さん、クラリネットを吹いて欲しいの』



亡くなった母の趣味はピアノで、岳が大きくなったら一緒に演奏しようと、

そういつも話していた。玄関からまっすぐに入ってこられる洋館のリビングには、

以前、母がお気に入りだったグランドピアノが置かれていた。

幼い岳は、母の膝の上に乗り、ただ指の届く鍵盤を叩いた記憶がある。

『ピアノとクラリネット』の演奏という、

母との約束は叶うことなくしぼんでしまったが、

『形見』とも言えるこの『クラリネット』を、岳は母が亡くなってから数年後、

父、武彦に頼み習いだした。それは、母を忘れたくない一心からだったが、

やがて相原家は色を変え始める。

武彦は、浩美と再婚することが決まり、リビングに置かれていたグランドピアノは、

岳が学校に行っている間に姿を消していた。そして、岳には敦という弟が出来た。

それまで、岳と母との思いを認めてくれていた武彦が、視線を浩美に向ける。

当然、家に出入りする人たちの顔も変わった。

『クラリネット』を習っていた先生が、ちょうどおめでたで辞めてしまったこともあり、

岳のレッスンもそれまでになった。



新しい先生を見つけて習い続けるのかと、武彦が聞くこともなく……



新しい家族の中に入ること。

当たり前だと心の底ではわかっているのに、

まとまらない気持ちを、岳はどうしたらいいのかわからなくなる。

岳は家から『クラリネット』を持ち出し、『桜北大学』の付属中学時代、

学校の屋上などで吹いていた。父に頼み、習っていたのは1年くらいだった。

しかし、もともとの器用さがあったからなのか、なんとか音も出せたし、

それなりに形付けることも出来た。



『お母さん』



これは、誰に向かっている言葉なのか。

色々な不安要素を、演奏で紛らわせていた岳は、新しい家族の中に、

自分の場所を確保するため、『桜北』だけではなく『慶西大学』の大学院まで卒業し、

そして、仕事にぶつかることでこの一瞬、一瞬を重ねている。

あずさの懸命な演奏に、ただ、母の面影を探し、

必死に吹いていた頃の自分をふと思い出しながら、岳はネクタイを緩めた。





その次の日、あずさは『三国屋』で購入した『リクチュール』のスーツに着替え、

自分の部屋を出た。思いがけない服装のあずさに、

普段どおり学校に行こうとした東子の足が止まる。


「うわぁ……何、あずさちゃん、今日は何?」


東子は、すぐに『リクチュール』だねとブランドを見抜く。


「うん、成り行きなんだけどね。って、東子ちゃん、
これが『リクチュール』ってわかるんだ」

「まぁね」


東子の横を、『BEANS』に向かおうとする敦も通る。


「もしかしたら、『ドン』が出席するパーティーに?」

「はい。とはいっても『肩もみ』担当は、担当ですけれど」


あずさは、そこに別企業の担当者が時間差で来ることが決まっているので、

待っている間、『肩もみ』なのだと説明する。


「いいね、これ。色も」

「うん……ものはとってもいいんだけど、お値段もとってもよくて」

「値段? そうかな。『リクチュール』ってお手ごろでしょ」


東子はそういうと、自分も何着か持っているけれどとつぶやいた。

あずさは、あの下駄箱を持つ東子なら、それくらいは当たり前だろうと頷いていく。


「東子ちゃんのように、こういったものがスッと手に入る人は、
それほどいないのよ。東子ちゃん、あなたは恵まれているの。
それはしっかりと覚えていて」


あずさがそういうと、敦もそれはその通りだと、同調してくれる。


「ふーん……。恵まれているんだ。でも私は大丈夫。
岳のように頭がよくて、敦のように優しい旦那様を見つけますから」


東子はあずさに『似合ってるよ』と言い背中を叩くと、

『行ってきます』と手を振り、家を出て行った。





その日のあずさが変わっていたのは、もうひとつあった。

岳の運転する車の後部座席に、

昨日、リビングで演奏を披露した『クラリネット』のケースを置いている。


「今度は、『アカデミックスポーツ』のみなさんにでも、演奏を聴かせるのか」

「聴かせるというより、ちょっと実験を」

「実験」


岳はどういうことだと言う表情で、横にいるあずさを見る。

あずさは、岳の顔を見ていると、細かく説明させられそうになるので、

あえて目をそらした。





『アルベンジホテルリゾート 新館完成祝い』



岳とあずさが出かけたのは、都心にある大型ホテルの新館完成のお祝いだった。

元々この場所にあったホテルを外資系の企業が買い取り、

古い洋館の趣を残した本館は、イメージを壊さないように修繕された。

そして、駐車場などを地下に収めることで空いた場所に、『新館』を完成させる。

この建設自体に『BEANS』が関われることはなかったが、

同系企業が経営する、別のホテル建設に、先月決定したこともあり、

岳は挨拶と顔見せのため、招待客となった。

あずさは今まで来たこともない華やかな場所に、ただ目をキョロキョロさせる。


「落ち着いて歩いてくれないか、その様子では不審者だ」

「すみません、自分でもそう思います」


あずさは岳から離れないようにしながら、会場を目指した。

その会場内では、父の代理としてこの場所を訪問した逸美が、

あさってに控えた『婚約』に対し、どこか割り切れない思いを持ち続けたまま、

立っていた。





【ももんたのひとりごと】

『中谷伯太郎』

彼は、『純文学』の有名な作家です、とはいっても、私が勝手に名づけただけですが。
でも、実際、そんな人がいそうでしょ。『はなごろも』は、彼の晩年の作品で、
子供を亡くした主人公の店に、桜が咲く頃、現れた一人の青年。
交流の中に生まれる新しい絆……という話。まぁ、これも勝手な想像ですが(笑)
学校の教師が薦めそうな本ですからね。あくまでも爽やかに……
間違ってもドロドロ不倫ものではありませんから。(笑)




【9-1】



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わーい

拍手コメントさん、こんばんは

>毎回思いますが、登場人物の設定が見事です。
 あずさ、岳、敦、東子の雰囲気など、
 色々と空想が膨らみます

ありがとうございます。
そういってもらえると、書くのがより、楽しくなります。
妄想、空想、どんどん膨らませてくださいね。