10 逃げ道のない場所 【10-3】

『翠の家』で昼食を済ませ、庄吉を『青の家』に送った敦は、

そろそろ『BEANS』に戻ろうかと、席を立った。


「敦……」

「はい」

「お前は『豆風家』の方を、仕事としてみるつもりはないか」


庄吉は、そう敦に言うと、どうだろうかと笑って見せた。

敦は、突然のことに、なんという返事をしていいのか迷ってしまう。


「そんなに困った顔をするな。今ここで、すぐに結論を出せと言っているわけじゃない。
武彦にも、何も話していない。ただ、あの……幼なじみの古賀さんから、
敦の小さい頃の話を聞いていて、私はそうだろうなという思いがあって。
母親の事情で、急に生活環境が変わり、その中で長い間、
色々と我慢をさせているのでないかと、どうしても気になって」


庄吉は、ソファーに座り、海の景色を見る。


「お前は心根が優しい。だからといって弱いわけじゃない。
岳のように激しさはないけれど、芯はしっかりと持っている。
『BEANS』で兄を助け、仕事をしていくのも悪いことではないが、
『豆風家』の仕事は、もっと人との関わり方が深い。『思い』を持てる人間じゃないと、
上っ面だけの経営になってしまう。私が今までしてきた、土地を見て、人を見て、
そして、施設のあり方を考える仕事を、お前につないでもらえたらと……
そう思えてね」


庄吉は、敦の目を見たまま、あくまでも提案だと繰り返す。


「じいちゃんは、お前の本当の気持ちを聞いてみたいんだ。
敦……お前ははどう思っているのかわからないが、私は岳も敦も、東子も、
みんな同じ孫だとそう思っている。遠慮などせずに、考えなさい。
今の仕事がいいのならそれで結構。岳も武彦もお前を頼りにしていることは間違いない」


庄吉はそういうと、『青の家』にも、染め物の先生に来てもらうことにしたと、

絞り染めの糸を巻く仕草をしてみせる。


「悪かったな、急に呼び出して」

「いえ、会えると思っていなかった人に会えて、楽しかったです」

「そうか、それならまた、ここにおいで」


敦は、庄吉に頭を下げると、エレベーターの場所に向かう。

ボタンを押し、ふと自分の指を見た。

一緒にお茶を飲んだ涼子の指は、染め物の色が残っていた。

涼子は、汚れの取れない指が、こうした時には少し恥ずかしいと笑ったが、

敦には、そんな思いは全くなかった。

社会の中に入り、自分の道を一歩ずつ確実に進んでいるという、

時間の現れのような気がして、逆に、傷一つない自分の指を見ていると、

人間全体がどこか薄っぺらく思えてしまう。

『豆風家』の経営を仕事とすることなど、正直、一度も考えたことはなかったが、

今日、訪れた施設の方達の笑顔と、次に計画されている『翠の家』の別館、

『翡翠の家』の話。敦には、どちらもしっかりと頭に残っている。

駐車場に向かい、車に乗り込むと、一度大きく息を吐く。

ハンドルを握ると、エンジンをかけた。





『肩もみ』から解放され、1日しっかりと時間をもらったあずさは、

実際『貸しスタジオ』として動かすために、細かい条件などを決め始めた。

ほたるがネットで調べ、周りの同じような場所がどれくらいの賃料で経営しているのか、

それをメモに取り、『アカデミックスポーツ』なりの価格を決めていく。

そして、ターゲットになるかもしれない大学をある程度調べ、

どう宣伝をしていくべきかを考え出す。


「問題は、『BEANS』のOKが出るかだよな」


あずさは、『BEANS』の許可を得ないとならないのですかと、柴田を見る。


「そりゃ黙ってやるわけにはいかないだろうな。うちが管理しているとはいえ、
このビルの持ち主は『BEANS』だ。敦君に話を持っていっても、
結局は岳君がOKするかどうか」


柴田は、そこでNGを出されたら、おしまいだと両手をあげる。


「そうですか。岳さんの許可ですか」


あずさは、それまでの前向きな気持ちが、一気にしぼんでいく。


「宮崎さん、無許可でやろうと思っていたの?」

「……はい」


小原は、『あらあら』と呆れ顔になる。

あずさは、岳を説得するのは簡単ではないだろうなと思いながら、メモを取り続けた。





「へぇ……『貸しスタジオ』かぁ。あずさちゃん、考えたね」

「うん。防音の話しは聞いていたでしょ。どうだろうかと思ったら、
今でもしっかり機能しているの。だから、スタジオとして夜に貸し出せば、
うちが売り上げを上げられるから、3ヶ月の猶予を、
1年くらいまで引き伸ばせるかもしれないなと」


あずさはメモを取ってきた用紙に、ドラムのイラストを書き始める。

東子は、高校でも『吹奏楽部』は正式な活動と認められて、

体育館だの音楽室を利用させてもらえるけれど、『軽音』となると、

案外、練習場所もなく、みんな苦労しているとそう話す。


「『軽音』かぁ。そうだよね、高校生くらいって、バンドとかに興味持つし」

「そうそう、そうなんだよね」


あずさは、東子の学校の子でも、申し込みが出来るようになればいいねと言いながら、

イラストを書き続ける。


「よし、岳を倒さないとね」

「倒すって……まぁ、言い負けないようにしないとね」


あずさはそう言うと、壁にかかる時計を見た。





夜8時、岳は待ち合わせの店に入り、案内された窓側の席に座った。

少しずつ秋も深まり、空気が冷たくなったからなのか、

夜景がいつもより、クッキリと見える気がした。

いつもなら先に来ている梨那が遅いため、何かメールでもされていないかと携帯を見る。

しかし、梨那からのメールは届いていなかった。



『中村逸美』



立食パーティーで再会し、『お幸せに』という言葉を贈ったものの、

実はその言葉ほど、岳の気持ちは他人ラインに届いてはいなかった。

人生の中で、いずれ『結婚相手』を見つけなければならないこともわかっていたが、

まだその時期ではないと考えていたし、

もう少し、楽しい時間を過ごせると思っていたが、

逸美は『運命』を自ら選んでしまった。

いつもそばにあると思えば、考えることもないのに、

もう二度と触れられないのかと思うと、こんなどうでもいい時間の中に、

香りも熱も、そして彼女の吐息の長さまで、鮮明に思い出されてしまう。

立食パーティーの日、逸美は『婚約は明日』だと、そう言っていた。

その『明日』は、すでに『過去の日』となっている。

岳は軽く首を回し、いつものように肩を上げ下げする。

あずさの肩もみのおかげで、ずいぶん楽になった。


「岳……」


梨那は、タクシーがなかなか捕まらなかったと言いながら、前に座った。

状況に気付いたウエイターが来たため、

それぞれ食べたいものを頼む。食事を待つ間も、友達の話、家族の話など、

梨那は元々話し好きのため、話題が途切れることはなかった。

岳は時々頷いたりしながら、梨那の気分を盛り上げる。

お酒も進み、気持ちも高まった段階で、二人は場所をうつす。

そこから主導権を握るのは、いつも岳の方だった。



【10-4】



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