10 逃げ道のない場所 【10-4】

梨那の気持ちを知っている岳は、

あえてゆっくりと、その滑らかなラインを指でなぞっていく。

重なっていた唇が首筋から胸元にさまよいだすと、梨那は岳の腕を軽くつかんだ。

しかし、岳は要求にすぐ応えることはなく、その手をはらう。


「何……」

「わかるでしょ」


梨那は自分の脚を岳に絡め、まどろっこしい時間にピリオドを打とうとする。

さまよっていた岳の手が、梨那の熱い思いに届こうとしたとき、

耐え切れない気持ちだけが、吐息となって出て行ってしまう。

普段から甘えることが好きな、梨那との時間は、

すべてが岳のものと、言ってもいいくらいだった。

自分が抱きしめられていることを、悦びに変えていくことが、

何よりも梨那の幸せな表情を見る方法だった。

岳の気まぐれを受け入れ、いたずらな指に何度も背中をそらしながら、

それでも与えられることを待っているような目は、十分気持ちを高ぶらせる。

岳の唇が梨那の元に戻ったとき、欲しいものが手に入ったという嬉しそうな顔が、

そこにあった。


「岳……お願い……」


普段より、少しだけ声色が違う梨那の顔を見ながら、岳は深く身を沈めた。





「父がね、仕事の席で、相原のお父様にお会いしたって」

「そうらしいね」


岳が白い天井を見ながら、まどろむのは、いつものことだった。

しかし、梨那との時間に満足し、穏やかな呼吸をすべき自分の気持ちは、

どこかに忘れ物をしている気がしてしまう。


「素敵な方だったって……」


梨那は、あくまでも親同士があったのは、偶然だったという部分を強調する。

岳の視線は、天井を見たまま動かない。

梨那は、自分のことが岳の心から消えてしまいそうで、その腕に頬を寄せる。

岳は一瞬梨那を見るが、その行為に応えようとはしなかった。

この余韻に、自分が満足し切れていないのは、求めているのが、

従順で、全てを受け入れるような安定した時ではなく、

隙を見せたら、表と裏がひっくり返されてしまうような、

気の抜けない時間だったことに、あらためて気付いてしまう。

ハラハラする時間と、自分の思い通りになる時間。

両極端の時間があってこそ、バランスが保てていたのかもしれないと、

岳は自分勝手な思いに、気付かされた。


「ねぇ……岳。焦らせるつもりはないけれど、
そろそろ、考えてくれてもいいと思うのだけれど」


梨那は直接的な表現を避けたが、それは『結婚』ということになると、視線で訴えた。

岳は一度目を合わせたが、また天井を見た。

こうした時間を、数年間持ち続けているのだから、

梨那がそういう考えを持ち、また、岳自身が受け入れてやるべきだということも、

わかっていた。

『BEANS』、そして『三国屋』。

二人の後ろに、大勢の社員たちと、並び立つビルの形が迫ってくる。


『自由にならない』ものならば、『誰にも届かない』場所まで、たどり着きたい。


岳が、『桜北大学』を卒業したのに、『慶西』の大学院に入り求めたのは、

そんなことだった。


「梨那。聞いてもいいかな」

「何?」

「俺から『BEANS』を取ったら、何が残る」


岳はそういうと、横にいる梨那を見た。

梨那は、何を言っているのかという目を向ける。


「岳から『BEANS』を取るの」

「あぁ……」


梨那は、視線が天井から自分に移ったことが嬉しくて、岳の左手を握り、

長い指1本ずつに触れていく。


「そんなこと、考えられない。岳と『BEANS』は一緒だもの。
ありえないことを考えても、意味がないでしょ。
あなたが社長になっている姿を想像しろというのなら、いくらでも出来るけれど」


梨那はそういうと、まだ甘えていたいのか、岳の左手を両手で包み込み、

手の甲にキスをする。


「一緒か」


岳は、どこかわかっていたような言葉が戻ったため苦笑する。


「そうよ。私は『BEANS』を継ぐために、貪欲になれる岳を好きになったの。
鋭い視線と、甘えを許さないような厳しい態度だけれど、でも……」


梨那は岳の左手を下に置き、その上に自分の頭を乗せ、さらに体を近づけた。

梨那の柔らかい胸の感覚が、岳の腕から伝わっていく。


「そんなあなたの腕の中にいる時間が、何よりも好き……」


梨那はそういうと、横を向いた岳の唇に口付ける。



『相原君と付き合ったら、一生生活には困らないわよ』

『中途半端なお金持ちじゃないでしょう』



岳の脳裏に、まだ、高校生だった頃の自分が蘇る。

同じクラスになり、ノートを見せて欲しいと言ったことから、距離を近づけた。

優しい瞳と、言葉に、亡くなった母の面影も見えた気がした人は、

岳が聞いていないと思ったのだろう、友達との会話の中でそう表現した。


『岳との恋愛は、経済的に価値がある』


「あ……」


岳は、右手で熱の残る場所に触れ、梨那の思いを動かしていく。

梨那は嬉しそうに頬を赤らめ、その動きに素直に吐息を落とす。

大学に入ってからも、同じようなことが度々起こった。

一緒に活動することになると、家のことを聞かれ、なぜか自分の存在を、

『相原家』が通り越した。

『相原岳』であることが全てで、それを切り取ってしまえば、評価されない。

幼い頃に母を亡くし、妹を亡くした岳にとって、『肉親からの無条件の愛』という、

誰でも経験することをできなかった気持ちのゆがみが、

『恋愛』に関して、素直な気持ちを吐き出すことが出来ない重石になる。



『人を好きになると、自分のことよりも相手のことを考える。
他のものが見えなくなるくらい、気持ちが動く』



そんな漫画のような恋愛など、岳の中には存在しなかった。





梨那を家に送り届け、岳はタクシーの中で一人、眠らない夜景を見続ける。

自分が自分として、誰に遠慮もなく過ごせるのは、仕事だけだと、

ずっとそう思いながら生きてきた。

幹線道路から道を上がり、『相原家』の前で降りる。

2階の1番端の部屋。あずさのいる部屋のあかりは、まだついていた。



『成り行き任せ』



以前、あずさは自分の性格をそう表現した。

岳の人生には、とても考えられないものだが、

それでもその正体のつかめないあずさの意見や言葉に、

自分がどこか振り回されているような気持ちになってくる。

岳は相原家の玄関の鍵を開け、中に入る。

生まれてから逃げることなど許されない場所に、岳は1歩進んだ。



【10-5】



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