14 感覚の恐怖 【14-4】

『中村逸美』

『桜北大学』時代、その存在が岳の支えになっていた。

『家』というものを背負いながらも、自分を見失わない逸美に、

憧れにも近いものを持っていた。

思い通りにならないジレンマと、それでも意見を戦わせている時間が好きで、

いつも気付くと隣にいて欲しいと願っていた。

しかし、その懐かしさを感じたのは、愁矢と姿を見せたあの一瞬までになる。

思いがけない逸美の行動を目の当たりにしたことで、岳は親しくしていた裏返しに、

憎悪の思いが大きくなっていく。

診察室の扉が開き、岳の視線に明るさが戻る。

医師にありがとうございましたと、頭を下げたあずさの姿が見えた。

白い包帯とギブス。右手をグルグル巻きにされた状態で、

ボタンを留め切れていないブラウスを着ているあずさは、

上着を左手で前に寄せ、胸元の乱れをなんとか隠そうとする。

岳は自分の上着を脱ぐと、あずさの全てが覆い隠せるように肩にかけた。


「大丈夫です」

「大丈夫ではないときに、大丈夫というな」


岳はあずさの前に立ち、病院の外に先に出る。

タクシーを呼ぶと、待合室に戻ってきた。


「どうだったんだ」

「右腕に、ヒビが入ったそうです。
折れてはいませんので、1ヶ月ほど固めていたら治るようで……」

「悪かったな」


岳がそう言ったので、あずさは『どうしてですか』と顔をあげる。


「自分で落ちたわけではないだろう」


岳はそういうとあずさを見る。

あずさは、岳は気付いているのかもしれないと思いつつ、

その申し訳なさそうな表情に『そうだ』と付け加えることが出来なくなる。


「言いましたよね、自分で落ちたんです。
いい気分で酔っ払って、それでふわふわっとしていて、あれって……」


あずさは精一杯、自分がドジをしてしまったと訴える。


「会場を出て行く姿を見た。逸美と一緒だっただろ。
宮崎さんの足取りは、普通だったし、酔っているようには見えなかったけれど」


岳は、逸美の後ろを着いていくあずさを見たと、そう言った。

あずさはそうなのかと思いながらも、それは別の意味だと、誤魔化していく。


「確かに一緒に出ましたけれど、私一人で階段に向かっていって、こう……」


あずさは必死に、自分が悪いと訴えてみるが、岳の表情は固いままで変わらない。

玄関前にタクシーが到着したため、二人は話を止めるとそのまま後部座席に座る。

岳は相原家の住所を告げ、運転手は車をスタートさせた。

しばらくは黙ったままだったが、岳が大きくため息をつき、横を向いたため、

あずさは下を向くことになる。


「宮崎さんを誘っていたのは逸美の方だった。俺が見たのは、逸美が前を歩き君が後ろ。
それは彼女に誘われて出たとみるのが普通だろう。
一緒に会場を出たけれど、すぐに別れた……まぁ、明らかにおかしいが、
そこまで宮崎さんの言うことを信じるとして、ならばなぜ、
階段から落ちてしまった君を、彼女は無視した状態で戻ってきたんだ。
従業員が君に気付いたのだから、彼女が君の異変に気付かないことはないだろう。
自分で助けられないにしても、声を出すなり、人を呼ぶなり、
先に戻ってくること自体、考えられない」


岳は、どうせ何をどう言っても、認めないのだろうとつぶやき、

また静かな時間が戻ってくる。


「もういい、とにかく休め」


岳はそういうと、外の景色を見たままになり、

あずさも黙ったまま、自分の右手を見つめ続けた。





「大丈夫? あずさちゃん」

「うん」


相原家に戻ったあずさは、とりあえず着替えを済ませ食事に参加したが、

右手にヒビが入った状態で、思い通り動かせないため、

ぎこちない左手でフォークを使うことになる。

一緒に夕食を取ることになった東子が、心配そうにあずさを見た。


「せっかくビール飲み放題、おつまみ食べ放題だったのにね」

「うん」


あずさは、自分が場慣れしていないのに、ふらふらしていたからだと、

あえて自分が悪くてこうなったと、そう言った。

東子は、自分が食事を口に入れてあげようかと、ふざけてみせる。


「大丈夫です」


あずさは、東子にかかるとなんでも笑いにされちゃうと、笑顔を見せた。

あずさは自分の斜め前になる、岳を見る。

岳は、黙ったまま食事を続けていて、あずさはフォークを使って、

ご飯を口に入れた。


「となると、あずさちゃんは岳の肩もみが出来ないわけだ」


東子の一言に、あずさは声をあげる。


「そうだ、どうしよう」


約束の期限まで、残り2週間あった。

それをクリアすることで、猶予としてもらっていた時間が存在する。


「あと2週間だろう。もう気にしなくていい」

「気にしなくていいということは、やらなくてもいいってこと?」


あずさの疑問を、目の前に座る東子が聞いていく。


「予定の3ヶ月。それである程度の目処が立っただろう」


岳はそういうと、あずさを見る。


「いえ、期限は契約書の最大日数になる,来年の秋まで、延ばしてもらいますので」


あずさはそういうと、岳を見た。


「何を言っているんだ。臨時収入と考えて始めたスタジオの貸し出し金額は、
予定に届かないだろう」

「届きます。なんとか出来ます」


あずさはそういうと、2週間後にはきちんとお支払いしますのでと、言葉を返す。

岳は、あずさの言い方に何か反論しそうな顔を見せたが、

結局、一言も口にしないまま席を立った。




階段を転げ落ちる時、段差の角度がやけに鋭く見え、

あずさは必死に手を出そうとするが、その手は動かない。


「はぁ……」


真夜中1時過ぎ、あずさは昼間のフラッシュバックから目覚めてしまう。

背中に残る手の感覚。一瞬頭を打ち、自分がどうなるかわからないと思った怖さが、

記憶の中に蘇った。

東子たちと、明るい場所で話をしているときには誤魔化せたが、

こうして夜になると喉が渇き、そして息遣いが荒くなる。

何か飲み物を飲もうと思い外に出ると、扉の少し前に小さな丸いテーブルがあった。

その上にはお盆があり、たたまれたハンドタオルと水筒が置いてある。



『何かありましたら、遠慮なく起こしてくださいね』



滝枝の持つ携帯の番号が書いてあった。

あずさはお盆ごと左手で取り、部屋の中に戻る。

水筒をあけ、上についているコップに注ぐとそれを飲んだ。

冷たいお茶が、喉を通っていく。

壁にかかる時計を見ながら、あらためて今が真夜中であると、確認する。

滝枝のくれた、起こしてくださいねという優しいセリフが、

思いがけないことに動揺しているあずさの気持ちを、落ち着かせてくれた。

誰かが気にしてくれている、頼れる人がいるという思いに包まれ、

あずさはそこからまた、眠りにつくことが出来た。



【14-5】



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