19 素顔のままで 【19-1】

『自分の周りで、何かが動いている』



この1年ほど、岳には、そう感じられることが増えていた。

その思いは、日々強くなっていて、年が変わっても落ち着かない時間が続いている。

面と向かって逆らってくるわけではないけれど、明らかに岳に対して、

思い通りの方向へは進ませないという力が、どんどん大きくなってきていた。

何をしようとしているのか、どう変えようとしているのか、何もわからないままで、

休憩所の中で、思い切り声を出したくなるくらい、イラついた気持ちもあるが、

そこは他の社員にとっても安らぎの場所であるため、

一人の空間ではないことを考えると、驚かすようなことは出来ない。

岳は声を出すことを諦め、息を大きく吐きだすだけだった。





その日、火曜日の夜、9時からの2時間。

あずさは『リラクションルーム』の中に入り、広々とした空間で、

とりあえず声を出してみた。借主は自分のため、当たり前だが誰もいない。


「こんばんは、宮崎あずさ、25歳です」


自分の名前を名乗り、静けさの中、大きく息を吐いた。

防音設備の整っている部屋の中は、数台の小さなテーブルと椅子だけで、

ロッカーなどかさばるものがない空間のため、広さだけが際立ってしまう。

あずさは、事務所でも出来る仕事だというのはわかっていたが、

あえてこの場所に持ち込んで、注文書に目を通していた。

防音のため、音をさせなければ、普通以上に『無』を感じてしまう。

あずさは、その状態をなんとか変えようと、視線を動かした。

この部屋を定期的に利用してもらっている客には、

管理番号をつけ、多少の荷物なら預かることにしていた。

あずさは、ミドルバンドのメンバーが練習用に置いてある、

CDラジカセを隅から取り出すと、

お茶を飲んだりするために置いてあるテーブルに乗せる。

バンドメンバーは、自分の父親に近い人たちだから、今流行の音楽ではないだろうが、

誰もいない空間に、静かなまま一人だと余りにも寂しい気がして、

とりあえず電源を入れた。

市販されているCDではなく、バンドのメンバーが自分で作ってきたものなのか、

ジャケット部分は真っ白になっている。

ドラムの軽快なリズム音が聞こえだし、曲が始まった。



ビリージョエルの『Up Town Girl』



あずさは、その歌手が男性だと言うことはわかった。

しかし、その歌声をどこかで聴いたことがある気がするものの、曲名がわからない。

テンポのいい曲で、メロディーも繰り返しが多いため、

自然と足がリズムを取り、体も左右に揺れた。

昔、音楽と言えば、ステレオやラジカセを使い部屋で聴くものだったが、

今はイヤホンを使うことが増え、音楽は持ち歩くものになった。

電車の中や、誰からいる部屋でも、好きな音楽を聴ける楽しさはあるが、

耳元だけのリズムではなく、大きな部屋に自然の音を出すのは開放感がある。

あずさは、こういったCDではなく、庄吉がこのビルを使っていた頃のように、

もう一度、生演奏でコンサートのようなものが開けたらと思ってしまう。

どうせなら臨場感も味わえたらいいと思い、『防音効果』を活用しようと、

CDラジカセの音量をさらに上げた。

テンポのいい1曲目が終わり、また別の曲が流れ出した。



『ピアノマン』



同じくビリージョエルの代表曲。ピアノの伴奏とハーモニカの音、

語るように歌う曲を聴きながら、あずさは書類を横に並べ始める。

10枚を左から右に動きまとめ、最後にホチキスで止める作業。

ただ用紙を取り、一番右で止めればいいのだけれど、

部屋の中には誰もいないことがわかっていたので、

ワルツのような3拍子の曲を聴きながら、用紙を取るとクルリとその場で回ってみた。

最初の曲ではよくわからなかったが、『ピアノマン』を聴いたことで、

これが『ビリージョエル』のCDだということがわかる。


街の薄暗い小さなバーで、弾き語りをする売れない歌手。


あずさは歌の世界に入っていく。

10枚重ねてホチキス止めをした書類を両手で持ち、

あずさは足を動かしながら、少しリズムを取って見た。

そんなふうに、自分の世界に入り込み、音楽を聴いているあずさを、

廊下から見ていたのは、右手にクラリネットの箱を持った岳だった。

この時間の借主が、あずさだということを知っていたため、

他の借主に会わないように、時間を考えて来た。

扉はしっかりと閉まっていて、防音の部屋のため音はハッキリ聴こえない。

だから、あずさが何の曲を聴いているのかまではわからないが、

楽しそうに体を揺らし、作業半分、ダンス気分半分に見える。

誰もいないと思い込んでいるからこそ、あずさが見せている動きのため、

岳は、このまま入っていいのかと考え、決心のつかないままその場に立つ。

あずさが動く隙間から見えた机の上には、数枚の用紙が並んでいた。

岳は、あずさがあの紙をまとめているのだとわかり、

とりあえずその作業が終わるまで、中に入らずにいようと決める。



『私が借ります……』



自分の給料からわざわざお金を出して、この場を確保しているのかと思うと、

岳は、あれだけ楽しそうにしているあずさの気持ちが、到底理解出来なかった。

2階の村田を誘ったと言っていたが、姿を見せている雰囲気はないし、

おそらく岳は、村田はこれからも来ないだろうと予想していた。

『全てが無駄』となる確率がとてつもなく高いのに、目の前にいるあずさは、

ただ楽しそうに思えてくる。

しかし、しばらくすると、そこまで楽しそうに動いていたあずさの足が止まった。

そして、書類を束ねていくことも忘れてしまったのか、

視線だけがCDラジカセの方を向いている。

それまで動いていた手も足も、ほとんど動かない。

岳は何が起きたのかと、さらに内側に興味を持った。

部屋の外という岳の場所からでは、あずさの背中しか見えず、

表情を知ることは出来ないが、明らかに状況が変わったことだけはわかる。

なぜ急に変わったのか、その理由が知りたくなり、岳はドアノブをゆっくりひねり、

少しだけ部屋の音を外に出すことにする。



『Just The Way You Are』



ビリージョエルの『素顔のままで』。

年代的には全く違うものだけれど、岳もこの曲を知っていた。

あずさは、どうしてそうなるのかわからないが、どこか呆然とした状態になっている。

あずさが少し顔を動かしたので、岳は一度体を扉の影に動かすが、

ゆっくりとまた元の位置に戻す。少しだけ見えたあずさの横顔は、

寂しく辛そうなもので、ただ黙って見ていることは酷な気がしてしまう。

岳は、音がするように扉を大きく開けた。

あずさはその気配に気付き、顔を岳の方に向ける。

瞬間的に、どうして岳がその場に立っているのかわからないという複雑な顔をした。


「こんばんは……」


岳の言葉に、あずさは返事をしようとしたが、

目にたまるものが、自分の意思に逆らって、下へ向かう気がしたため、

『こんばんは』と言いながら、岳の横をすり抜け、事務所に戻ってしまう。



飾らなくていい、無理をしなくていい……

ただ、僕は今のままの君が好きなんだ。



岳は、出て行ったあずさの代わりに『リラクションルーム』の中に入り、

扉を閉めると、ラジカセの音を止めた。



【19-2】



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