19 素顔のままで 【19-4】

「宮崎さん、地方ジムの受付をしていたと言ったよな」

「はい」

「だとすると、接客はうまい……」


岳は軽く首を回す。


「うまいかどうかはわかりませんけれど、でも、楽しいですよね、人と接するのは。
こんなことを思うのかとか、こんなふうに考えるのかとか、
自分にないものがわかったりするでしょう」


あずさはそういうと、クラリネットを軽く磨く。


「『楽しい』か……」

「はい」

「予定になかった仕事を、しなければいけなくなった」

「予定になかった?」

「あぁ……分譲マンションのモデルルーム公開。別のチームが営業部の応援だったのに、
仕事の都合でいけなくなって、色々回そうとしたけれど、
結局、俺がいかないとならないかなと」

「岳さんが……ですか」


岳はあずさの驚いた顔を見る。


「何か言いたいことがありそうだけれど」

「いえ……特には」


あずさは岳の顔を見ながら『いいえ』を何度か繰り返した。


「その顔は、お客様にとんでもないことを言うのではないかと、そういうことだろう。
無駄だの、予算不足だの、きついことを言うはずだと……」


岳の指摘に、あずさは黙ったまま小さく頷く。


「そんなことを言ってはいけない事くらいわかっている。
営業部のテリトリーで、何も言うつもりはないよ。
とにかくアンケートをまとめることに集中する」

「でも、チャンスじゃないですか、それ」

「チャンス?」


あずさは『はい』と返事をする。


「ほら、前に言いましたよね。『高岩建設』の『即日完売』の物件、
岳さんは全く理解できないって」

「あぁ……」

「でも、世の中の価値を決めるのは、実際に購入するお客様ですから。
聞いてみたらいいんです。こういうものはどうですかとか、どこで決めますかとか、
生の声」


あずさはこんなチャンスを人に渡す必要はないと、楽しそうに言い始める。

岳は、自分にとって面倒な仕事が、あずさには『チャンス』に思えるのかと、

考え方の違いに、心のバランスがキリキリと音を立てる気がしてしまう。


「あのさ……」

「岳さんにしてみたら、面倒なだけだと思うかもしれませんが、
プラスにしようと思えばなりますよ。でも、これは嫌だ、自分には向かないと、
イヤイヤやっているとなりません」


あずさは、何事もチャレンジだと、岳を励ましてみせる。

岳は、この考え方は、あずさ独特の理論だと思いながら、また楽譜を見た。


「岳さんって、学生時代バイトとかしたこと……あります?」

「いや、ないな」

「そうですか……」


あずさはあれだけ大きな家の長男なら、それはそうかもしれないと考える。


「バイトとは言わないかもしれないが、
学生時代から、『BEANS』の仕事を手伝っていた」

「大学生でですか」

「まぁ、大学の実習をより本格的にしたものが仕事だと思っていたし、
会議に参加していたわけではないけれど、どんな内容が動いているのか、
だいたい聞いていればわかるから」


岳はそういうとあらためて『クラリネット』を吹き始めた。

何度か繰り返すうちに、綺麗な音色が部屋の中に響いていく。

あずさは、『BEANS』以外のことを、何も知らないと言っている気がして、

岳の指の動きを見ながら、なぜか物悲しい気持ちになった。





「エ!」


千晴は、思わずベッドに横になっていた体を起こした。

隣にいる泰成は、『信じられないだろうけれど』と言葉を付け足す。


「本当に、岳が営業部の応援に行くの?」

「あぁ……昨日そう言っていた。営業部の担当者も口をあけていたよ。
よりにもよって、跡取りが来るなんてって」


泰成はもう一度千晴の腕を引くと、その唇にキスをしようとする。

千晴は泰成の顔を左手でブロックすると、

自分のペースを乱さないでとばかりに軽く睨む。


「そんなこと考えられない。モデルルームに来る客に、
アンケートを取ってくる仕事でしょ。子供に風船配ったりなんて、
岳には全く似合わないし」

「それは俺たちだって思っているよ。
だけど、今回はうまい具合に『岸田』の仕事が入ったんだ。
社長が決定した仕事だけに、岳さんだってそれを変えろとは言えない。
あとのメンバーも、それ以前に入っている仕事だから、もちろん変えられないし。
となると、自分たちが動くしかないわけ」


泰成は、人に頭なんてろくに下げたことがないのだから、

おそらくとんでもないことになるよと、千晴の首筋に鼻を近づける。

泰成の唇が、首筋から耳元へ向かい、さらなる時間を求めようと、

その指が千晴の胸元に滑っていく。


「ふーん……岳がね……」

「あぁ……」

「あの男が困る顔を想像するだけで、ゾクゾクする……」


千晴はそういうと軽く目を閉じる。


「全く、君は妙な感度を持っているね」

「悪い?」

「いや、悪くはないな」


泰成はそう言いながら、唇を胸元に移動させる。

遊び場を奪われた泰成の指先は、千晴の反応を確かめながら、さらに下へと向かった。


「もう帰ろうと思っていたのに、その話を聞いたら……」


千晴は、泰成の姿を自分の体の上で確認する。


「もう一度、楽しもうって思える?」


泰成の言葉に、千晴は両腕を首に回す。

すでにスタートしているくせにと思いながら、『ふぅ……』と息を吐き出した。

左脚がシーツの上を、滑るように動く。


「これからだね、色々と」

「そうね」


泰成と千晴は互いの唇を合わせると、再びの時間に向かってまた動き出した。





岳が営業の応援に行く前日。

あずさは、『完治宣言』をしてもらった腕で『クラリネット』を持つと、

『リラクションルーム』に入った。

岳は忙しいし、約束をしているわけではないが、

それでもここで話すときは、『同じ目的』を持てている気がして楽しみにもなる。

準備体操のように、音階を何度も吹き、

学生時代に課題曲となった『A列車で行こう』を吹き始めた。

途中まで吹いていたとき、扉の向こうに人影が映ったので、

あずさは岳が来たのだろうとそう考えたが、入ってくる様子もなく曲が終わった。

あずさは『何をしているんですか』と言いながら、扉を開けたが、

そこには誰もいない。斜め向こうのエレベーターが開き、

その時、初めて岳が姿を見せた。


「こんばんは」

「……あぁ」


岳はあずさが扉を開けていた意味がわからず、不思議そうな顔をする。


「あの、一応お聞きしますが」

「何」

「今、少し前に、私が演奏していたのを、ここから覗いていたということは……」


あずさはそこまで言うと、『ないですよね』と口にする。


「あぁ、ないな。覗いていて、エレベーターから降りてくるのはおかしいだろう」

「確かに」


岳は部屋に入ると、『クラリネット』の箱をテーブルに置いた。



【19-5】



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