19 素顔のままで 【19-5】

「誰かいたのか」

「……ような気がしただけかもしれません。うちの事務所もみなさん帰りましたし」


あずさは岳の練習になればいいと思い、

『クラリネット』の楽譜をファイルから取り出した。

その紙を岳の座っている椅子の前に、両手で出す。


「アンケート、よろしくお願いします」


岳は出された用紙が明らかに楽譜で、

『アンケート』という言葉と合わないことを指摘する。


「わかっています。明日ですよね、営業部の応援。
こんなふうに紙を出したらどうですかという、私なりの見本です」

「見本」

「はい。よろしくお願いしますって、出してくださいね、紙。
間違っても、、眉間にしわを寄せて、無表情で渡したりするのはなしですよ」


あずさはあえてそういう表情を作り、人差し指を眉間にあてる。


「岳さんの部下なら、みなさんわかっているでしょうけれど、お客様ですから」


あずさは『お客様』という部分を、もう一度繰り返す。


「アンケートは資料が欲しい人や、景品が欲しい人が書くものだ。
それなのにそこまで低姿勢に出たら、逆におかしいだろう」


岳は用紙を置いておけばそれでいいと、楽譜を受け取りテーブルに置く。


「おかしいですか? 私は『アカデミックスポーツ』で、退会する人や、
入会した人に、必ずアンケートを書いてもらっていました。
確かに退会する人の中にはきつい事を書いてきた人もいますし、
『なし』ばかりの人もいましたよ。でも、気付かないことを書いてくれた人もいて、
それは大事だって思えたので」


あずさはそこまで言うと、口の前に左手を置く。


「すみません、私は素人の部外者です」

「わかっているなら、それでいいけれど」


岳はあずさの渡した楽譜を見ながら、1音ずつ吹き進めていく。

あずさも両手で『クラリネット』を持つと、指を動かそうとした。


「腕、よくなったのか」


岳はあずさの右手から、包帯が消えていることに気付く。


「あ……気付いてもらえましたか? はい。もう大丈夫だと言われました。
『完治宣言』です」


あずさは腕をまくると、左手でポンと軽く叩く。


「そうか……」


岳は、あずさの腕を見た後、嬉しそうに少しだけ微笑んだ。

あずさはその顔を見た後、『ご心配をおかけしました』と言う。


「いや……」


たった2文字の返事だったが、あずさは事故の内容を知っていた岳が、

やっとほっとしたのだと、その気持ちが手に取るようにわかる気がする。

そこからしばらく、互いに楽譜を追いかけ、練習に取り組んだ。





そして、岳が営業部の手伝いをする土曜日がやってきた。

いつものように車に乗り込み、いつものように出発する。

平日に比べ、大通りは車が少なかった。

あずさは『お願いします』という言葉を使い、低姿勢に出るようにと、

アドバイスをしてきたが、岳は最初から裏方に徹し、

営業部と、いつも物件が出来上がるとお願いしている会社に任せようと、

内心そう思っていた。

元々、愛想などないし、持ち場でないところであれこれ考えるのも面倒くさい。

岳の車は、予定より早めの時間に現場へ到着した。

車を近くの時間決め駐車場に停め、『BEANS』の旗がある場所に向かう。

営業部員たちが、ポールを立てたり、風船を準備したりと、忙しそうに動いている。


「おはようございます」

「おはようございます」


岳は一緒に手伝うことになっていた社員と合流し、プレハブの事務室に入った。

机の並ぶ部屋の真ん中に、今回のマンション建設の模型が置いてある。

マンションは周りを緑で囲み、3方向から外へ出られるようになっている。

駅から賑やかな街並みを歩いて、家の手前で中に入ってくるのもいいし、

最初から敷地内に入り、静かな道を歩くのも、選ぶことが出来る。

2軒の玄関が並ぶ形になっているマンションは、長い廊下を歩くこともないので、

プライバシーも守りやすい。

岳はこの建物を計画した当時のことを思い出しながら、

アンケート用紙をボードにつけ、椅子の隅に置いた箱の中にひとつずつ入れた。



『ゆったりとしたあなたの時間』



今回販売するマンションの、これがキャッチコピーだった。

部屋はそれぞれ4LDKだが、リビングが広めの部屋、クローゼットを大きく取り、

収納に力を入れた部屋など、同じマンションなのに、それぞれ特徴を持っている。

新聞に広告を入れたこともあるし、

子供たちが喜ぶような、手作りメロンパンの小さな移動車を準備していたため、

モデルルームは午前中から、予想以上の人出があった。

岳は事務所の裏に入り、書き込まれたアンケートの紙を取り、また新しい紙に変える。

テーブルの真ん中に座っていた営業部の社員が、質問を受けたため、お客様と外に出た。

そのため、テーブルの真ん中が空いているのに、担当者がいない状態になる。

アンケートを書きたいと希望する人たちが、誰かいないのかと視線を動かしていた。

その中の一人と岳の目があったため、とりあえずテーブルの前に立つ。


「どうぞ」

「あ……はい。これを記入したら、外のメロンパンとか、
お菓子の詰め合わせをいただけますよね」

「はい」

「子供が3人います。3つもらえますか」

「担当の者にそう話して下さい」

「あ、はい」


その男はそばにいた子供と奥さんに合図をすると、アンケート用紙を持った。

岳は、名前と住所を書いている男の顔を見る。

氏名欄には『山本和男』と記され、続いて書き始めた番地。

そこは都内から一歩郊外に入った場所にある、完全な商業地だった。

以前、ビルのオーナーが新しいビルを建てたいと話したことがあったため、

岳が交渉に向かったことがある。

ボーリング場にサウナ。持ち主が管理していた物件は、大きな駐車場を完備していて、

その周りにアパートがあったという記憶は無い。

男は、岳の視線には気づかないまま、ある番地を書き込むと、

そこから部屋番号らしきものを書いていく。


「あの辺は……大きなサウナがありますよね」


岳は、書き込まれた番地の情報を、目の前の男に語った。

男は顔をあげると、『あ……はい』と返事をするが、

それまで快調に動いていたペンが止まる。


「確か、駐車場が……」


岳がそう言ったとき、男は立ち上がり、やっぱりアンケートはいいですと、

紙を戻した。


「どうされましたか」

「いえ……あの……すみません、時間がなくなったので」


男はそういうと、近くにいた子供の手を引き、慌ててプレハブから出て行った。

岳は書き込まれた名前と住所を見た後、そのまま紙を半分に破り捨てる。

そこに団地やアパートがないことも、男が書いた住所には、

住宅ではなく別の建物があることも、岳は最初からわかっていた。

本当の住所を書きたくないのは、マンションなど最初から興味もなく、

ただ、景品だけをもらうためだけにきているからだった。

後から、電話やダイレクトメールでで営業も受けたくないから、

でたらめな資料を残すのだろう。

住所だけではなく、おそらく名前も違っているはずだが、

岳がその土地の特徴らしきことを話したので、男は見抜かれていると思ったのか、

慌てて出て行ってしまった。

岳はこんなふうに自由に書かせるアンケートなど、最初から『ウソあり』なのだから、

何も得るものはないと、椅子から立ち上がる。


「相原君」

「はい」


岳に声をかけたのは、

営業部に長く勤務している、定年間近の『猪熊鉄朗(てつろう)』だった。





【ももんたのひとりごと】

『Just The Way You Are』

私が大好きなビリージョエルの曲の1つで、今回は、この曲がテーマとなっています。
(タイトルも……ですから)。クラリネットやピアノ、オルゴールなど、
色々なバージョンをユーチューブで見つけ、聞くこともよくあります。
何しろ歌詞が素敵なのです。本当にストレートなラブソングなわけで……
『祐との思い出』に浸れるこの曲は、あずさにとっても特別という設定です。




【20-1】



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