35-①
「何、飲む?」
「いいわよ、お客様ではないから」
結局、私は優秀な妊婦を繕う時間もないまま、母を迎えることになった。
母は、いつもなら持ってこない大きめのバッグを置き、そこからあれこれ出し始める。
「これが安産のお守り。婦人会のお友達がね、もらってきてくれたのよ。
娘さんにって」
「うん」
梅干しだの、おもちだの、テーブルの上に少しずつものが乗せられる。
「実は1週間くらい前にね、千波ちゃんが和貴と二人で新潟に来てくれたのよ」
「1週間前? エ? だって今、幼稚園休みではないでしょう」
「そう。それでも、正月に来られなかったし、和貴の入園式ビデオを、
どうしても二人に見せたいからとか言ってね」
千波ちゃんと和貴は、『北陸新幹線』に乗って来たという。
「まぁ、それは口実? 本当の目的は、お父さんに会うためだったのよ」
「お父さんに?」
母は、千波ちゃんが、私と啓太が新潟に行った時、
父があまりいい反応をしなかったことを知り、話に来たのだと言い始める。
「お父さんに、未央の結婚と妊娠を、素直に喜んであげて欲しいって。
自分が流産してしまったことで、
逆に喜びを抑えるような形になってしまったのだとしたら、申し訳がないからって、
そう言ってね」
「エ……」
千波ちゃんは、父が『おめでとう』の言葉を出さなかったのは、
自分のことを気にしてくれているからではないかと、そう話した。
「私もね、実はそう思ったところもあったの。結婚だけならともかく、
妊娠していることを、そうか、そうかと喜んだら、
千波ちゃんが申し訳ないと思ったりするんじゃないかと、
お父さん、考えたのかもしれないなって」
赤ちゃんが誕生することを喜べば、それがダメになったことが、
逆に浮き彫りになってしまう……
「私は、未央ちゃんがいつも、自分のことを姉のように慕ってくれて、
相談してくれたことがとっても嬉しいから、結婚と出産が同時に来てくれて、
さらにさらに嬉しいって……そう言ってくれたの」
和貴は、私のところに赤ちゃんが生まれたら、幼稚園で習っている歌を、
歌ってあげるつもりだと、胸を張ったという。
千波ちゃんに、確かに父があまりいい反応をしてくれなかったことは話した。
でも、まさかこんなふうにしてくれるなんて。
世の中にいる義理の姉のみなさんは、これだけ妹に優しいのだろうか。
いや、中谷千波だから、千波ちゃんだからに違いない。
「2日、和貴と一緒に過ごした後、未央の様子を見に行ってやれって。
私が奏樹の時にも、未央の時にも、結構『つわり』があったから、
遺伝があるかもしれないって……」
「誰が?」
「誰って、お父さんに決まっているでしょう」
父は、私が大変そうだったら、しばらく東京にいればいいと、
そう言ってくれたことも、母が話してくれる。
「本当に?」
「そうよ。お父さんもちゃんと、未央の幸せを喜んでいるの」
無愛想で、なんでも早めにやらないと気が済まず、自分に厳しいため、
人にも厳しいところがある父だけれど……
本当は、子供たちをとても愛してくれていることくらい、
私は、ずっと感じて生きてきたのに。
「そっか……」
「そうよ。よかった、ここへ来て。顔を見ればすぐにわかるもの、
もう、大変で、大変でってこと」
「お母さん」
「ほら、寝ていなさい。駅前のスーパーで少し買い出ししてくるから」
「あ、私……」
「いいわよ、そんな顔色をした娘を連れて歩くのは、余計に気を遣うだけでしょう」
母は笑いながら、『つわり』は病気ではないから、ケロッと治るときがくると、
私を励ましてくれる。
「未央の体の中が、今、なんだろうこれって赤ちゃんを観察しているのよ。
未央が『大切だから、守って』って信号を送れば、ちゃんと認められる」
母の言葉に私は頷き、娘として『最大限』に甘えさせてもらう。
母がいるという安心感だろうか、今まで喉を通らなかったものも、
なぜか通っていく。
『大丈夫』という言葉が、心の底から自分を励ましてくれた。
『母の登場』
私は、啓太の電話でこのことを話し、
実は『つわり』が思っていたよりも大変だったことも、併せて白状した。
啓太は申し訳なさそうな返事をしたが、母が『任せてね』と言ったことで安心してくれる。
『7月にはまた東京に行けると思うから』
「大丈夫だよ、お母さんがいてくれると思うだけで、本当に気分が違うの」
何もかも一人で頑張らないとと思うような、必死感が取れたからなのか、
深呼吸も普通に出来るようになった。
「ねぇ、啓太。安定期に入ったらさ、私が大阪に行ってもいいでしょ」
啓太が頑張っている土地。
社員寮にお邪魔するわけにはいかないが、空気を感じることは出来るはず。
『よし、それなら制服を着ている姿、見せてやる』
「見せてやるって何よそれ、その言い方」
少しだけ甘えたような声を出したくなる会話だけれど、
キッチンに母が立っていることに、気がついた。
秘密の会話にならないところは、一人でいるより不便だけれど、贅沢は言えない。
『そうだ、谷さんのお店、結構評判になっているらしい。この間、
地元のタウン誌から取材の申し込みがあって。お客様の中にも、
眉村先生のファンが来るみたいだよ。あのイラスト、結構写真に撮る人がいるって』
「そうなんだ、よかった」
啓太が兄のように慕う、谷さんご夫婦。
眉村先生の渾身のイラスト。
それがまた、お客様を呼んでくれていると聞き、嬉しくなる。
いろいろな幸せが、私の周りにあって、そこに私と啓太の幸せも、
グルグルと混ざり合っていく。
『それじゃ、未央。お義母さんにもよろしく伝えて』
「はい、言っておきます」
10分程度の電話は、そこでプツンと切れた。
私は着信記録の『啓太』の文字を見る。
「お母さんがいると、啓太さんがこっちに来られないかしらね」
「そんなことないし、色々とあって少し休みを取り過ぎたから、正直、
助かると思っているわよ、絶対」
「そう? それならいいけれど」
母は手を拭きながらこちらに戻ってくると、軽く首を動かした。
私は肩でも揉みましょうかと声をかける。
「あ、ダメ、ダメ。お母さんは人に触られるのが苦手なんだから」
母はそう言いながら笑うと、いつも楽しみにしているドラマがあるからと、
テレビをつけた。私は誰が出ているのと、携帯で番組を調べてみる。
「ほら、『大下京介』よ、刑事物とかよくやる」
「あぁ……あの人か」
「主人公の父親役なの。年を重ねていい役者になったよね」
母はそういうと、聞いてもいないのに、ドラマの内容を語り出す。
「そうそう、昔、お父さんね、似ているって言われていたのよ」
「誰に……」
「大下京介に決まっているでしょう」
母はそう自慢げに言ったが、私は絶対にないと首を振る。
小さい頃から思い出に残っている父の顔は、どちらかといえば四角い形で、
話題に上がった大下京介は、細面だと思う。
「全然似ていないわよ」
「ちょっと似ているわよ、見方によっては」
そんなことなら誰だって言えるわよと私は笑いながら、
母が入れてくれた麦茶を、一口飲んだ。
35-②
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